辻書房

辻書房 祖先辿れば大山街道国分辻宿場茶店商い。それが今は塾兼業文芸古書店。?

書棚は教室一部に設置(自宅に変えた)。スタート六千冊超、30年後85歳で五万冊目標にできる限りごまんと集めたい(無理だ)。文芸、(歴史、民俗、芸能、芸術、映画、音楽ほか絵本、マンガ、ミステリーも揃えますが、50~70年代のセレクトを特に心がけます。珈琲やソファもご用意し、ゆっくり本との対話=往古の時空間への旅を愉しんで頂けたら嬉しく存じます(半年でめげた)。どうぞご贔屓に。

耽書亭日乗 彌生朔日 晴 月曜に妻と、和田峠ー陣馬山ー景信山ー小仏城山ー高尾山の計15.5キロ‐6時間を縦走しました。快晴の下、気持ちよく歩きました。外反母趾が痛むのを我慢して。 先週封切り映画:「エンパイア・オブ・ライト」イギリス映画監督...
01/03/2023

耽書亭日乗 彌生朔日 晴

 月曜に妻と、和田峠ー陣馬山ー景信山ー小仏城山ー高尾山の計15.5キロ‐6時間を縦走しました。快晴の下、気持ちよく歩きました。外反母趾が痛むのを我慢して。

 先週封切り映画:「エンパイア・オブ・ライト」イギリス映画
監督:サム・メンデス ☆☆☆☆

 今、最も良質な映画を監督するサム・メンデス。今回も自分の青春時代イギリス1980年代を背景にした良作をものにした。特に主演のオリビア・コールマンの演技は真に迫るもので本当に素晴らしい。映画賛歌の面もあり、その意味でも印象の残る映画だった。

 今回から妻の書できちんと額装してあるものをアップします。それを見て気に入った方に無料でお譲りします。但し、私又は妻の知り合いで直接私の自宅へ取りに来られる方のみ。
 妻は元産経国際書会無鑑査会員です。

29/09/2022

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル



 ラスト・第9回…父よ母よ



大学6年目(実質2年生)の成績は前年よりやや劣るもまずまずであった。あと2年で卒業はほぼ確実であろう。ということで映画館通いがまた多くなった。が、この年は「遊星からの物体X」のほかに私の心をふるわせる作品はなかった。入学当初から比べ世の映画の傾向がかなり変わった。安定した経済事情を反映して、「遊び」の世界を主題とするものが多くなった。生きる事のぎりぎりの世界を描く映画はもはや過去の話になっていた。



大学授業後、よく椎名町のK君のアパートに行った。K君は八丈島で一緒にバイトした仲間。酒好きの彼と近くの呑み屋に行ったり、部屋でいろいろな話をした。大学では人としゃべらない分、ここではよく話した。私が酔って部屋で横になると、彼はそれから机に向かって勉強を始める。税理士試験の為の勉強である。頭が下がる。



塾のバイトでは国語以外も教えた。塾は生徒数も全体200人を超え、中学3年は実力別4クラスとなった。私はDクラス男2人、女2人の担当。4人ともかなり出来ない。アルファベットもおぼつかない。1時間のうち半分は自然とおしゃべりとなる。学校のこと、家族のことなど、各人が大声で自分の好きにしゃべりまくる。私はあいづちを打つだけ。塾長に「これでいいんですか」と聞くと、「親は塾に行くだけでいいと言ってる」と言う。結局、中学卒業後4人のうち3人は就職となった。それでも私には4人ともかわいく、特に一人は卒業後も免許試験のためという目的で会って「子弟の交わり」を続け、その後の私の結婚式にも来てもらった。



7年目の大学生活でもおおかた一人で行動した。蔦のからまる古色蒼然とした早大図書館によく通った。中は人が少なく静謐、とても落ち着く。村上春樹も学生時代はきっとここで時間をつぶしたに違いない。彼はデビュー後、順調に作品を発表し、この年は「羊をめぐる冒険」で野間文芸新人賞を獲得した。好きな作品だ。時間があると早稲田の大学周辺をよく歩き回った。大久保から新宿へ。目白から池袋へ。有り余る時間、歩くことで過ごした。ずっと一人でも神経症的な事態に陥ることはもうなかった。



愛川の塾は丹沢山地の東部、周囲が山で囲まれている。近くを中津川という水がきれいな一級河川が流れ、夏には多くのテントが川岸にはられ賑やかとなる。そんな僻地でなぜ塾がはやるのか。やはり、世の中全体が豊かになったからであろう。塾は集落のはずれにあるため、生徒の約半数以上は車で送り迎えをしなければならない。私もバイトの時は9人乗りのワゴン車で、団地からさみしい山の奥の一軒屋まで生徒の送り迎えをした。夜、イノシシが目の前を通り過ぎることもあった。私のほかにも学生バイトが5、6人いた。早大、慶大、青山と名だたる大学の学生ばかり。みんななぜこんな辺鄙なところまで来てバイトをするのか。多分私と同じく、この地域のまだ自然で「すれていない」生徒達との交流がきっと楽しいのだろう。



大学8年目。卒業できる単位は全132単位以上。うち112単位を既に取得した。あと2科目8単位と卒論の12単位。卒論の担当教授は江戸文藝の大家である興津要教授である。落語家との親交があり、特に柳家小さんとは親友と言ってもよい。授業前によく「昨日はだれだれと飲んでどうしたこうした」というような話をまくらに授業を始める。そう、その語り口はまるで落語のように軽妙洒脱で、これぞ江戸っ子の鑑(かがみ)といってよい人物である。彼は古い洋画が好きで、よくデートリッヒやバーグマンと言う女優の名がその話に出てくる。ある日、「君たちの中でバーグマンの映画を見たことある者はいるか」と学生に訊いた。そっと手を挙げる私。「何という作品を見たのだね」。「7年ほど前のアガサ・クリスティー原作の『オリエント急行殺人事件』にオールスター・キャストの一員として出ました。それでアカデミー助演女優賞を取りました。」うまく教授の懐に入った。これで卒論はうまくいくぞと一人ほくそえんだ。



大学にいく日数が減ったので、塾バイトがほぼ毎日となった。授業の割り振りや送迎のコース作りまで任されるようになった。200人以上の生徒の成績管理、月謝袋の受け渡し、各クラスの授業進度のチェックなどなど様々な仕事があった。もはや正社員と同様の働きぶりである。ひとり憂鬱そうな姿で時間をつぶす私はどこかに行ってしまった。毎日がどんどん過ぎていく。つぎつぎと色んな事が起きて、それを責任を持ってこなしていく。充実していた。が、それでも自分では中学教員になるつもりでいた。



6月、母校の中学で2週間の教育実習を行うことにした。が、その直前に愛川の塾経営者Tさんからこう言われた。「市議会選挙に出るから2週間、私の代わりに塾をやってくれないか。」驚天動地だ。そんなこと絶対無理だ。といっても、私のほかに彼の塾を保っていける人はいない。しょうがない。引き受けた。実習の授業や生徒の扱いは塾で慣れている。私の実習の指導教員は私とさほど年は変わらず、ほとんど何も言ってこない。生徒の中にはもう一つの塾の教え子もいた。彼らには塾でのことは言わないよう頼んだ。が、私と会うとクスクス笑う。やりにくい。実習授業が終わった後に、急いで塾に向かう。送迎と授業とその他さまざまな雑事。国語の実習授業は概ねうまくいき、国語科の先生方からは「落ち着いてるね。」とお褒めの言葉を頂いた。もう3年も経験してるから当然だと言いたかった。選挙戦の人手不足で土日には選挙カーの運転までした。が、初めての市議選は全然話にならない得票数で落選。私はたぶん人生で最も忙しく立ち回った2週間だった。



その2週間の後しばらくは虚脱感にとらわれた。中学教員より塾教師そしてその先塾経営者になることを考え始めた。そんな私の様子を知ってかTさんが1冊の本を私に貸してくれた。『塾は学校を超えるか』という題名。八杉晴実という私塾の経営者・教育者が書いた。そのものずばり、塾こそが学校ではできない人間作りの本当の教育ができるという考えの本。(八杉さんはその後、東京弁護士会の「人権賞」を受賞した)これを読んで私は決心した。「塾の先生になる。自分の塾を持つ。自分の好きなように子供たちに教える」という決心と誓い。教育実習で学校の現場を垣間見て落胆した。そこにはエネルギーの充満と発散が殆ど見られなかった。生徒たちは上を向いて生きようとしてるのだが、先生方は内に向かいがちでいつも疲れていた。こんな環境で一生を送りたくない。もっと自由で溌溂と自分の好きに生きたい。自分の塾で子供たちに自分のやり方で教えてみたい。受験という足かせはあるがそれを逆手に取って自己を確立するための目標とすればいい。



ようやくと自分の生き方が決まった。ここまで7年半かかった。Tさんにはその旨を話し、あくる日からは大学には行かず、塾の専業職員となり毎日昼過ぎから夜遅くまで働いた。夏は近くの中津川で水浴びをした。塾に迷い込んだ野良犬が住みついてしまった。しばらくは私と生徒たちが交代で面倒をみたが、最後は近くに住んでる友Oの実家で引き取ってもらった。名をカリートいう。その後、子を産んだ。モックンという。



その後、私は29歳春に結婚しその年7月に塾を始めた。先祖代々営んだ海老名国分辻の茶店そして飯田菓子店のあった県道と県道の交わる「辻」で「辻塾」という名の学習塾を。友Oは厚木郊外にモータースポーツを愛する若者が集まる店を始め見事に挫折した。友Uはきちんと早大を出て測量事務所を弟とともに営んでいる。Tさんはその後何度も厚木市議選に挑戦しては落選を繰り返し、今は転居して愛川町町議会議員となった。

私は今年2月に塾を閉じ、教室を英会話を教える学童保育に貸している。35年間の塾人生は当初の目論見とは大きく違ったが、それでも「我が道を往く」は貫き通した。よき塾人生だった。悔いはない。



@大学8年目の秋、家に大学抹籍の通知書が来た。後期の授業料が未納だったからだ。父母に謝りこれからの自分の人生の計画を話した。納得してくれた。1年後、厚木の職業安定所に勤める父の所に教員募集のためにTさんが現われた。偶々である。父はTさんに頭を下げ「息子をどうかよろしく」と言ったとTさんから聞いた。親不孝の極致とも言うべき私を最後まで見捨てず見守ってくれた両親。このドキュメントはそのふたりに捧げたい。天にいる父よ母よ。キイチは塾を最後までやり通しました。二人の愛に感謝しています。

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル  第8回…「走れ、トラボルタ!」   大学5年目。前半4年間で取得できた単位はゼロ。これから入学する1年生と同じように勉強しなければならない。4月の単位登録の時、4年...
23/09/2022

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル
  
第8回…「走れ、トラボルタ!」

大学5年目。前半4年間で取得できた単位はゼロ。これから入学する1年生と同じように勉強しなければならない。4月の単位登録の時、4年前の本当の同級生とばったりと出会った。彼は衣料メーカーに就職するのだが、1科目だけ単位未収得のため、追試を受けに来たという。私がまだゼロ単位と聞いて、「えー!」と大声を上げて驚いた。早大の学生手帳の学生番号は7628435891のように入学した西暦年の下二桁76がはじめに印字されている。教員や事務の人にはわかる。授業始めの出欠チェック、教員が「飯田基一」と呼んだ後にほんの僅か、間(ま)が空く。これがなんとも嫌だった。誰も気にしないが、私は気になってしかたがない。授業ではなるべく目立たないようにふるまうのだが、暫くすると同級生(1年生)に知れ渡ってしまったようだ。父親はたとえ大学8年でも教員試験に受かりさえすれば、教職に就けるのだから、石に齧りついても単位を取り卒業するんだと私を叱咤鼓舞する。母は弁当まで作り、持たせるようになった。私も前半4年間の遅れを取り戻そうと、真面目な学生に戻って、どんなつまらない授業でもきちんとノートを取り、課題をこなした。1年後の3月、成績表は学年限度40単位すべてを取り、秀-優-良-可-不可のうち秀と優ばかりであった。母親はそれを見て涙を流した。ふつつか者の23歳の親孝行である。

ジャズ喫茶には行かなくなり、映画も自重した。家での自室引き籠りもやめ、帰宅後はテレビ前で過ごした。ヨガも徐々にやらなくなった。ヨーカドーの肉詰めバイトをやめた後、暫くは何もしていなかったが八丈島バイトに行った高校同級のOと近くの高校の夜警バイトを4日に一回の割当てで始めた。車の免許を春休みに取ったので、兄のお古(ふる)の日産チェリーで通った。夕方5時半に事務員と交代し事務室に入り、朝8時までそこにいればいいという楽な仕事。大学授業にはぎりぎり間に合う時間である。夜9時以降、朝7時まではベッドのある宿直室で過ごす。校内夜回り2回ということだが、それも初めだけで徐々にやらなくなった。そのうち浪人1年の就職も決まった大学4年の悪友どもが私達の夜勤の時に高校に寄りついて雀卓を囲むようになった。三楽オーシャン水割りを飲みながら。麻雀に飽きると、深夜の体育館にライトを煌々と点けてバスケ、バレーなどの球技、夏は屋外プールで何も身につけず夜空の星を眺めながら背泳をした。遅れてきた私の「青春の謳歌」。

Oに彼女が出来た。彼の大学の後輩でモデルをするほどに綺麗で魅力的な子だった。二人とも車が好き、それが縁で付き合うようになったという。私たちの高校夜勤バイトに車で彼女を連れてきた。私の目の前でいちゃいちゃ、でれでれくっついては笑い合っていた。羨ましくなくもないが、あまり気にならなかった。彼女を家に送ると言っては、私を一人置いて夜遅くまで二人でどこかに行ってしまう。そのうち、夕方から朝まで私一人で宿直しOは朝方だけもどって、「います」ということもあった。私はその頃から自分で酒の肴を作っては飲んで食べるというのが好きになり、Oがいなくても宿直室で、「檀流クッキング」という本を見ながら東坡肉(トンポーロー)やレバニラ炒めを作ってはひとり悦に入った。

さて、私の人生の変わり目の話に移る。自宅から歩いて10分の所にあるK学園学習部のバイトは、私の専門の国語を中学生に教えることだった。大学授業に差しさわりのない土曜日に1時間2コマを教えた。学校の教室並みに大きな部屋で大きな黒板を使った講義形式の授業だった。中学教科書内容の補習と中3は入試レベルの問題のポイント説明など、塾としてはよくある授業。が、私にはそれが新鮮であった。昼間は大学の大きな教室で大勢の学生の一人として大学教員の授業を受け、夜はまだあどけない顔つきの子供たちに、拙いながらも自分なりに研究勉強した授業を行う。その落差が自分には面白かった。私の授業はあまり楽しいものではなかったはずだが、先生先生と慕って来る子たちがいた。大学ではいつも一人、口をきかない日々の中でそのことが自分には実に嬉しく楽しくかけがえのないものに思えた。

K学園の園長先生は大の麻雀好きで、麻雀のできるバイト学生は次から次へと学園内の自宅にある雀卓に誘われる。私も下手ながらも牌を握ってしまい、借金を多く重ねてしまった。少ないバイト代の殆どがすぐそれに充てられてしまうこともよくあった。それでもK学園には大学での無味乾燥な毎日とは違った人間的な付き合いがあった。K学園の学習部は私と中学高校同級の園長の息子Kが若いながらも仕切っていたが、他に分教室もいくつかあり忙しい。それで彼は学期ごとの職員会議の司会を英語担当のT先生に任せた。40代前半の髭を生やした特徴のある顔つき。私の好きな画家ゴーギャンに似ている。一見、画家か詐欺師のように見える。彼は急に頼まれた司会役をその場で弁舌爽やかに見事にこなしてみせ、強く印象に残った。

その職員会議の後、T先生に話しかけられた。同じ早大出で愛川町の平山坂下で150人規模の私塾をやっている。K学園は昔世話になったので、今も週末一回来ている。一度、自分の塾を見に来ないかと言う。すぐに行った。国道のくねくねの坂の下の空き地に平屋の小さなプレハブ教室がが二つ。土曜日、理科と社会の授業を見た。教師はK学園のH先生とT先生。生徒は12、3人。和気藹々と会話をしながら楽しそうに授業をしていた。授業後、近くの喫茶店でT先生の今までの人生の話を延々と聞かされた。鹿児島の名門の家の出、実兄は早稲田のウェイト・リフティング部主将で三島由紀夫にも教えたという。T先生は卒業後、世界を旅してまわって見聞を広め、その後に個人の旅行ガイドとなった。どういうわけだかイスラエルの教育制度の話になり、その巧緻さを感嘆、褒めたたえていた。結婚し、男子3人を授かったが3人とも喘息にかかり、きれいな空気を求め厚木荻野に転居してきて塾のバイト講師、そして独立し、生徒数がすぐに増えた。私は週1で国語を教えることになった。

大学6年目。平日は大学で授業を受ける。週末は二つの塾で国語授業を授ける。充実していた。けれど、大学授業のつまらなさにまた辟易としてきた。4年前と同じことを話す教授、自分の趣味の謡(うたい)を聞かせる教授、黒板に向いたままぶつぶつと小さな声でささやくだけの教授。本当に興味を持てる授業は数えるほどだった。我慢、我慢。中学教員めざし、ひたすら耐えた。そんなある日、Oが自分の彼女と一日だけデートをしてみないかと言う。せっかくだからと、自分の中古車に彼女を乗せ都内に入った。初デートと初めての都内運転。ステアリング握る手が汗ばむほど緊張した。新宿の映画館で「ミッドナイト・クロス」を見た。サスペンスの名手、B・デ・パルマ監督とジョン・トラボルタ主演のアクション映画。最後のシーンでは思わず、「走れ、トラボルタ!」と叫んでしまった。

父親には教員をめざすとは言ったものの、映画への夢はあきらめきれなかった。雑誌「シナリオ」とキネマ旬報の上映映画のシナリオを読みこみ、自分でも「書こう」と思うのだが、実際ペンを握ると頭にはなんのアイデアも浮かばなかった。自分の創造力・想像力のなさがつくづくいやになった。あきらめよう、やはり教師しか道はないなと覚悟した。

二つの塾のバイトは楽しかった。授業そのものより生徒たちと話すことが。私は23歳、生徒は主に13~15歳。絶対的に名門校を目指すという親・生徒はおらず、気軽だった。授業中に気を緩めてユーミンや竹内まりやの詩をコピーして配り、カセット・デッキで聴かせたりもした。それでも塾の先生になろうとは思わなかった。そのころ、塾の教師などはまだまだやくざで当てのない職業であったから。

@母のこと…小さいころ、祖母(伯母)に育てられた。母は菓子店が忙しく、私のことはほぼ祖母に任せきりだった。小学校高学年になって祖母が病気がちとなり、寝たきりか病院の世話になることが多くなった。小学校から帰ったある日、急に耳の奥が痛み出した。母は店を閉め、バスで隣町厚木駅前の耳鼻科に私を連れて行った。治療後、駅前丸井の食堂でオムライスを食べた。帰路のバスの中、私は酔って吐いてしまった。赤色のご飯粒が客席シートに、バスの木造床面に広がった。母は満員のバスの客に、「すいません、すいません」と頭を下げながら、必死に私の吐瀉物を手拭いで寄せ集め、自分の買い物籠の中に掻き込んだ。母は尊し。忘れられない。

16/09/2022

「キイチ青春ドキュメント」ーその暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル

第7回 「われら何処より来たるや。われら何者なりや。われら何処に行くや。」

 休学届を出したとはいえ、その間も割引された授業料を払わねばならない。親は自分で払えという。長期のバイトを探した。折込チラシに載っていたイトーヨーカドーの深夜バイト。東名厚木インター近くにある物流センター、その中の精肉部で挽肉のパック詰めを主に行った。通常は深夜11時から45分休みを挟んで朝8時まで。5時で終わりにしてもよい。11~5時の間は深夜手当がついて通常バイト代の5割増しになる。車もバイクも持っていないので、本厚木駅から会社の送迎バスに乗って通った。ヨーカドーは衛生面のチェックが厳しく、工場への入場の前後にかなり細かい決まりがあった。いつも頭にかぶる毛髪ネットがとても嫌だった。ベルトコンベアで流れてくる挽肉を100g、200g、300g、500g のビニルパックに詰めるという単純な作業である。今なら機械が行うところだ。立って行う作業だが深夜なので当然、眠気が襲う。その我慢が金になるのだと自分に言い聞かせつつも、ついつい舟をこいでしまう。

精肉部は挽肉詰めと包丁での肉カットとに分かれる。挽肉詰め作業は凡そ10人前後。半分は近くの大学生(幾徳大、東海大など)、残りは近場の洋品店、金物屋そして肉屋など個人商店の「ご主人」方である。ヨーカドー進出によって店の稼ぎが減ったご主人が、その憎むべきヨーカドーにバイト稼ぎに来ているのだ。ほぼ毎日顔を合わせるので自然と話を交わすようになった。誰に聞いたのか、私が早大であることを聞きつけて「なぜこんな所でバイトしているんだ」とみんなに聞かれた。正直に、大学が合わなくて休学していることを話した。何回か呑み会にも行った。学生で呑み会に出ていくのは私だけだった。午前2時の休みは食堂で夜食を食べる。この夜食が安いわりに豪華だった。ステーキ肉やマグロの刺身など、腹いっぱい食べてすぐにロッカー室の床でみんな、それこそマグロのように横になって眠る。その30分の眠りが短いながらも極楽だった。

私は大学に行かないので、ほぼ週6日で朝8時まで働いた。そのバイトでの働きぶりを見て、ヨーカドー幹部社員から入社の勧誘を何度も受けたが、そのたびに断った。バイト以外の暇な時間は主に読書。その頃は心理学・精神分析学から宗教へと関心が移っていた。たぶんオム真理教などからの誘いがあったら、そこへはまり込んでしまってもおかしくない状況であったが、幸いにもそういう陥穽(かんせい)には落ちなかった。帰宅途中、まだ図書館などなかった海老名の中央公民館の小さな図書室に寄って、角川書店から発行されていた「日本の仏教」シリーズを第1巻から読んだ。興味があって読んだのではない。何かに縋らないと自分を保てなかったからだ。さらに究めようと思い、唯識仏教の専門書を買って読んだこともあった。殆ど何を言っているのか分からなかったが、そういう雰囲気に浸るだけで安心感があった。

稼ぎは普通のバイト代の1.5倍。休学で払う費用は微々たるもの。飯代は親に掛かり切り。一時期打ち込んでいたパチンコも、もうさほどではなくなっていた。他のギャンブルはしない。本代は殆どが古本屋で買う文庫本ばかり。酒は国内最安価なウィスキー、三楽オーシャンのビッグボトルを水割りで飲むくらい。「小金」が貯まってしまう。すると使うものは・・・。ここらで「私のヰタ・セクスアリス」を語らねばならないのかもしれない。私は高校・大学とずっと彼女はいなかった。可愛いな、綺麗だなと思っても大学に行ってない自分に自信がないから言い出せない。しかし、普通の男性にあるような性欲はごく普通にある。当然、自分で済ましてしまう事が多かった。が、自由になるお金が貯まってきた。当然と若い男の欲望はそちらへと向かう。と、・・・。この辺で許していただきたい。ただ一言いうと、初手(しょて)は夢じゃないかと思うほど若く純な女性であった。それは今も私の中の「神」に感謝している。あの娘さんは今ごろ何をしているのだろうか。

大学4年目。まだ自分の中で、もやもやとわいてくる霧が消えない。歩いていく道筋が見えない。人嫌いというか、人と話すこと交わることが億劫で怖い。外界に対して窓を開かない自分。で、また休学届を出した。親はもう諦め半分だ。早稲田はその辺が全く自由で、何も言われない。この後もなにも言われたことはない。高校時の友達のUやOとも会わなくなった。麻雀もご無沙汰だ。叔父(母の弟)が私の部屋を窓の外から覗きに来た。何も言わずに。もはや親類間では私はあたらず触らずの存在であった。自分でも自分がわからない。「われら何処より来たるや。われら何者なりや。われら何処に行くや」。ヨーカドーの深夜バイトはさらに続いた。*14

ヨガを始めた。初めは薄い初心者向けの手引き本。続けるようになってからは分厚い専門的な指導本に則って、一日一時間ほど。すると、気持ち悪い程にみるみると変わった。体型から何から何まで。私が畳の上でさまざまなヨガのポーズを組んでいると、母親は廊下で不思議そうに心配そうにそれを眺めた。近所の寺や神社にもウォーキングに行き、神に仏様に手を合わせ合掌した。「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩~」と、口で心の中で唱えた。際限なく飲んで吸っていた酒・タバコの量が減った。さらに鈴木大拙などの禅仏教の本や、その頃本屋店先でうず高く積まれていたインドの瞑想指導者バグワン・シュリ・ラジニーシの本を読んだ。その時期はバグワンの本を何度も再読し、かなり入れ込んだ。*15

短期間で私は変わった。元のキイチにもどったようだった。近所の人とも挨拶をするようになり、心配していた親は勿論、親戚の人とも気軽に話をするようになった。禅仏教やヨガにはその後も親しんだが、その他の教えは自然と自分から離れていった。自分の中での危機は脱したように見えた。ここまで3年半かかった。そして、夏の終わりに一冊の本に出会った。村上春樹の「風の歌を聴け」だ。群像新人文学賞ということで、何気なく本屋で見て手に取ったのだが、私に与えた影響は大きかった。村上龍を除いて、それまでの日本の文学にはない新しい匂いを感じ取った。まさに私の時代の文学だった。なんでも、プロ野球ヤクルト・スワローズのファンの彼が、ある夜のナイター試合に外野席でビールを飲みながら、外人選手ヒルトンが外野にポテンヒットを打つのを見て、ふいと「小説を書こう」と思ったらしい。その作家デビューは私が長い闇夜を脱して、新しい朝を迎えようとしたその時期と軌を一にしていた。以降、今に至るまで彼のほぼ全ての小説や随筆、雑文を読んでいる。すべてが新鮮で古い日本の時代の影響はどこにもなかった。1979年(昭和54年)の秋のこと。今から43年前である。

翌年の2月。春からは大学の授業に戻ろう、8年間の残り4年できちんと単位を取り、教職課程も取り、卒論も書いて、父の言う通りに中学教師の試験を受けて先生になろうと決心した。そして、ヨーカドーの深夜バイトも残り数週間に近づいたころ、同僚の学生バイトから「厚木高校出身の人が短期バイトで来てるよ」と言われた。知らない顔だったが、こちらから声をかけた。同期のMという人物で、就職(神奈川県庁職員)も決まり最後の春休みに自宅近くのこのセンターの深夜バイトに来てるという。恥ずかしながらも、自分の今置かれてる状況を正直に話したら、「俺はもう止めたんだけど、君んちの近くのK学園で塾バイトの講師を探してる」と誘われた。中学・高校同級Kの父親が経営する珠算と学習の総合塾だった。中学教師を目指す私にそれは好都合とばかりに、Mに仲介を頼んだ。すぐに話は通じた。そして、これが私の人生の最大の変わり目となった。

*14…画家ゴーギャンがタヒチで描いた絵の画題
*15…そののち、あらゆる宗教の教えを取り込んだバグワンの教えは爆発的に若者の間で広がり、その勢いは国=政府を脅かした。インドから追放され、次に移ったアメリカ・オレゴン州でも時のレーガン大統領に嫌われ、他の国でも受け入れるところはなく、最後はまたインドに戻った。1990年に59歳で死んだ。

@兄:幸一のこと…私より5つ上。6つ上の姉はすぐに町田へ嫁に行ったので、その影響は殆どないが、兄にはなにかと世話になった。私の大学放浪時代には小遣いもくれた。自分では広島のマツダ工業に就職したかったのだが、父の意見を入れて市役所の職員になった。当然、幹部候補生である。が、50代半ばで高校の後輩Uが市長になった。なにかと評判の悪いワンマンな市長である。兄をけむたく扱った。兄も市長に逆らい、60歳定年で辞めた。その後すぐの市長選挙で、退職した市OBの仲間と対立候補を立て、戦った。僅かの差で負けた。いまだ忸怩たるものがあるであろう。

09/09/2022

「キイチ青春ドキュメントーその暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル」

第6回:北新宿三畳間と八丈アイランド



大学3年目。春休み2か月で貯めたバイト代を資金に家を出た。恥ずかしながら「二十歳の家出」である。勿論だれにも告げず。学生援護会で新宿に近くてできる限り安いのを探してとお願いしたら、北新宿に1万5千円格安の三畳間があるという。早速、大家さんに面接しに行った。狭い街路の奥にあった汚い「しもた屋」に大家のおばあさんはいた。旦那が死んでなんだかんだと訳のわからない話をずっと聞かされた後に、私の手相を見るという。「あんたは女を泣かすね」と言われた。まだ女も知らないのに。暫く手を放してくれなかった。アパートは古びた木造二階で8室。私は二階畳部屋。極小シンク、共同便所、風呂はない。セコハンの折畳み卓袱台を広げ、万年床となる布団を引くと部屋はほぼいっぱい。その頃はフロイトの精神分析学の古本や雑誌を片っ端から読んでいて、それらがあたりに雑然と積まれていった。自分の不安を突き止めようとしていたのだろう。結局、フロイト理論は自分にはあてはまらなかった。



食事は近くに吉野家があったので、そこでほぼ毎日二食、牛丼並を食べた。大好きなので飽きなかった。銭湯は5日に一度ほど。ぴあとシティ・ロードを見てほぼ毎日新宿に出ては名画座で映画三昧、ジャズ喫茶でフリージャズ三昧。アルバイト・ニュースでバイトを探すには探したが、やらなかった。貯金が少しずつ減っていくのが怖かったが、部屋での生活はまさに子宮の中にいるような感覚で心地よかった。布団に横たわってシミのある天井を見ては、これからどうしたらいいのだろうかと思いをめぐらした。もちろん大学には行かず、休学届を出した。こういう生活が2か月ほど続いた。いつかは破綻するだろうと思っていたが、私の中では不安ながらも、とても「豊かで充実」した毎日だった。もしかしたら、あの2か月が私の一生で最も「自分らしい」時間だったかもしれない。



北新宿の部屋でいつものように寝ころんで本を読んでいたある日。窓の下から何やら「キイチ、キイチ」と呼ぶ声。なんと高校同級のOとI(後に厚木市役所勤務)だった。どうしてここがわかったんだ!以下は今週日曜にOにその事情を尋ねた返信メール。…「キーチがいないんです、と涙声のおふくろ様から電話があった。で、Iを誘って捜索を始めた。記憶が曖昧だが潜伏先の住所に何か手掛かりがあったのだろう、二人のにわか刑事は新宿のその界隈のボロアパートをしらみつぶしに見てまわった。そしたら、ついに共用玄関に薄汚いスニーカーを発見した。白地に黒いRのロゴ、当事、おたまもしゃくしも履いてたダサいリーガルのスニーカーだ。逮捕!」…たくぅ、「太陽にほえろ」の見すぎだ。当時Oは二浪後にようやく大学に受かったばかり。潜伏先の住所を私が教えていたのか。それも聞いてみた…「少なくともオレがキーチからの手紙を受け取ったという記憶はないので、おふくろ様がキーチ部屋の遺留品から何かのヒントを掴んでいたのかも。」…おふくろは15年前に死んだ。事件の核心部は永遠に謎に包まれたままだ。(ミステリーの読みすぎ) ちょうど資金も尽きてきた。アパートを引き上げ、家に戻った。すぐに家族会議が開かれた。

 父「お前はいったい何をしたいんだ」 私「映画の仕事に就きたい」

 父「横浜放送映画専門学院って知ってるか。話をしてやってもいいぞ」 私「!!!」

 兄「キイチはまだ整理がつかないんだろう。ま、25までにやりたいことが見つかればいいんじゃないか」

横浜放送・・というのは今村昌平監督が立ち上げた学校。なぜ父がそこにコネがあるのか知らないが、崇敬する今村監督という名前が出ただけで腰が引けた。結局、しばらく様子見ということになった。すでに休学届を出してしまったので、私はやることがない。休学中の授業料は私が出すことになったので、バイトするしかない。



 Oが夏休み期間に八丈島でバイトをしないかと言ってきた。港のそばの海の家での手伝いである。「無職」の私は飛びついた。竹芝桟橋からフェリー船二等船室に乗って明け方着いた。海の家社長にすぐに「あそこ寿司」という寿司屋に連れていかれ「なんでも食べてもいいよ」の大盤振る舞い。二人は高級貝トコブシをせせりながら「これはいいバイトだ」とほくそえんだ。海の家は食堂に土産物屋が付いていて、食堂が忙しい時はそちらの手伝い、あとは土産物屋の包装と店番。賄い方はコックと地元のおばさん二人。お運びはなまいきな地元女子高生3人。私もお運びで、Oはまかないの補助、といってもかき氷の器械の前からほぼ動かない。楽そうだなと思ったのは大きな間違いで、昼前後に多くの海水浴客が殺到し息つく暇もない忙しさだった。食事が出されるまで1時間ほど待つ客もいた。一段落着いた後の昼休み1時間はぐったりして休憩所で横になるだけだった。



 コックと思っていたK君は、実はど素人の学生(2歳上)だった。料理本を読み、おばさんやホテルの本物コックに聞いたりでなんとかこなしていた。彼も文学とロックが好きでウマがあった。三人ともビール好きで夜はサッポロの黒生ビールを浴びるほど飲んだ。ストレスと疲れと他にやることがなくて本当によく呑んだ。バイト代をもらった時、その四分の一がビール代となっていた。住まいは店主が管理している近くの大きな別荘で、これは自由に使わせてもらった。ただ、絶対入ってはだめだという部屋があって、「入るな」というと入りたくなるのが人情。簡単なカギを外して見ると何の変哲もない和室である。が、なんとなく薄気味悪くそれ一度きりとなった。仕事に慣れたころ、さらに仕事が増えた、社長が島のホテルに出している土産物屋の店番である。イーグルスの「ホテル-カリフォルニア」が流行っているころで、K君がジュークボックスでよくそれをかけた。夕方、遠く太平洋に沈む真っ赤な太陽を眺めながら、ドン・ヘンリーの陰影のある歌声に耳を傾けた。*12、*13



 Oは新車が待っていると言ってさっさと島を引き上げたが、私は帰っても何もないので、2か月間びっちり働いた。最後の1週間は私一人だった。出来なかった海水浴や桟橋での釣りをやって、八丈アイランドの残暑を満喫した。さて、これから帰ったらどうしたらいいのか。学生の身分を残してはいるが、見通せぬ未来に対して不安で空(うつ)ろな私だった。



*12 島を去る最後の日、別荘は沖雅也のだと社長に知らされた。「太陽にほえろ」の刑事役で全国に知れわたった彼は5年後31歳で「おやじ、涅槃で待つ」という遺書を残し、京王プラザホテル47階から飛び降り自殺した。なるほど部屋に妖気が漂うわけだと思わず身震いした。35年後、私とOとK君の3人で島を再訪し、海の家跡地で偶然にも孫を遊ばせていた社長に出会った。「バイトは沢山いたからわがんね」と言われた。

*13 K君とはその後も付き合いは続き、6年前に青森(寺山修司好きのK君のリクエスト)、4年前に道東を車でめぐった。彼は山形市に大きな事務所を持つ 県税理士会の重鎮である。 



*B3 同級有名人シリーズ(高校篇)

 当時、女子生徒が1割ほどの厚木高校の中でその人は早くからその美貌とツッパリ(長いスカートとぺちゃんこ学生カバン、剃りを入れた眉毛)で目立っていた。中学バレー部で一緒だったH(後に串揚げ店経営)は入学当初から彼女がお気に入りで、夏の部活のある日「キイチ、花火大会にNを誘ったら来るというんだ。お前も来いよ、な。」あまり乗り気ではなかったが、ついていった。花火の合間、和食喫茶でパフェやソーダフロートを注文したり、どういう流れか座間栗原の彼女の家まで行ったことなどは覚えている。応接間に通されてかしこまっていたら、お父さんらしき人が出てきて挨拶してくれたという記憶も。とにかく在学中のNさんは全校注視のマドンナで、テニスコートでラケットをふる彼女の姿を隣のバレー・コートからよく眺めていた。白いウェアと時折垣間見られるスコートが…。大学に入ってすぐテレビドラマのオーディションで大抜擢され、あとはトントン拍子。Nさんとは言わずと知れた名取裕子さん.

(以下、後日談)15年前、高校バレー部の主将だったEが脳出血で緊急入院した。病状は重く今に至るまで家に帰れず。歩けない話せない食べれないの三重苦。見舞いに行って「だれか会いたい女性はいないか」と訊いたら、文字盤で「な・と・り」と答えた。すぐ彼女の事務所宛にこのことを手紙に書いて送った。その年の終わり、彼女の写真カレンダーと短い添え書きが郵送されてきた。「E君に楽しんでもらえるといいけど…。友情が長く続いて…」。以降、毎年年末に送られてくる。弟さんのメールではEの病状は変わらないという。コロナ以降3年近く見舞いに行けてない。Eは今も生きている。

02/09/2022

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル

第5回・・・サマヨエル早大生

 大学2年生の春。1年目に1単位も取っていないので、単位登録はほぼ1年時と同じ。面倒くさいから。教室は殆ど見たことのない人ばかり。掲示板の前で出会う1年目のクラス仲間に「何やってたの」と訊かれると、「受験し直した」とは言えず、適当にごまかした。映画サークルにも最初のうちは顔を出したが、事実上留年した自分が情けなく次第に遠ざかっていった。授業は昨年以上に興味を持てず、講義うわの空で文庫本を読んで時間が過ぎるのを待つだけだった。大学内で人と話をすることはほとんどなく、休み時間・空き時間は学部の図書室、近くの都立公園、早稲田古書街で過ごした。古書と言ってもそのころは最近発行の文庫本しか興味なく、立ち読みか超安価なものを買うだけだった。 殆ど人と話さないので若干吃音気味になっていった。知った人と話すときも顔を合わせることが恥ずかしく面を上げずにいた。

 高校時代の親友Oが二浪になった。一浪の時から仲間と彼の家に週末の夜に行き、庭の作業小屋で麻雀卓を囲み、終わってから車好きのOの自家用中古車で湘南や箱根に「走り」に行った。二年目もそうなった。そういう時は高校時と変わらない「キイチ」だったし、私にとっても唯一の楽しい時間だった。免許を持たないのでいつもOが私の家まで送ってくれた。音楽好きな彼の車でデビューしたての竹内まりや、カントリー・シンガーのエミル―・ハリスなどを聴いた。東の空の明けゆく朝焼けを眺めながら。今でもその歌声は私の耳底に残っている。

 5月6月と進むにつれ嫌いな授業には出席せず名画座映画館とジャズ喫茶で時を過ごすことが多くなった。ジャズ喫茶は有名な新宿のDIG。せまい店内で客は言葉を発せず、珈琲一杯でこうべを垂れてジャズに聞き入る。店の人がレコード・アルバムをチェンジするときに一斉に顔を上げてタイトルを確認し、また自分の世界にもどる。私も同じだった。嫌だけどそうなってしまう。オーソドクスなものから段々と破壊的なフリー・ジャズへと好みが移行していった。その音楽内容は全く分からないのだが、その喧しい音の連なりがそのころの私の心の中の叫びを代行してくれるように感じた。DIGの後は新宿紀伊国屋書店で本を立ち読みし、店の下のサブナードへとつながる地下食堂街の餃子専門店で一番安いランチ定食を食べ、空腹を満たした。時間つぶしの為、さらに新宿の街を目的もなくさまよい歩いた。何も考えていなかった。不安だけがあった。毎日が惰性で流れていった。

 名画座で前年封切りの「タクシー・ドライバー」を見た。衝撃だった。私がここにいる、まぎれもなく今の私だと思った。その過激な暴力性。大都市の中の孤立。当時の私の心の底に隠し持っていた「爆弾」に、代わりに火をつけてくれたように感じた。マーティン・スコセーゼとロバート・デ・ニーロ。二人は私のヒーローとなった。 そして、日本映画では日活ロマンポルノの大傑作、田中登監督の「㊙色情めす市場」もそのころに見た。大阪釜ヶ崎のドヤ街に生息する親子のパンパン(売春婦:親は花柳幻舟、娘はそのダルな演技で知る人ぞ知る芹明香)を描いた白黒映画(最後だけパートカラー)。70年代前半の飛田新地やあいりん地区で強行突破的にほぼ全編ロケで撮ったそのリアル。ドヤのくらしの淫猥、汚辱にまみれた生活感をこれでもかというくらいにカメラで映し出す。「うちはゴム人形の根無し草や。けどここで生活するしかあらへんねん」と最後の場面で言い切るわが青春のアンチ・マドンナ芹明香嬢。映画最後に白痴の弟とまぐわってしまう。まさにマグダラのマリア。けがれ切った彼女の姿態が逆に後光のさす菩薩の姿に見えてしまった。一回しか見ていないけれど、私にとっては日本映画で最高一番の作品となった。*10

 短期、長期の休みにさまざまなアルバイトをした。父の斡旋で厚木の中小工場でしたバイトは前にも書いたが、この夏の工場バイトは最も厳しいものだった。トーヨー・ソフランというポリウレタンを生産加工する工場。私は普通乗用自動車の座席シートのポリウレタン、出来たばかりの熱い熱いそれを型版からはがして次のラインに乗せる単純作業。しかし、真夏のその作業は周辺が40度、50度にもならんとする厳しい環境で、5分作業しては交代し5分作業しては交代し、それを1時間やっては30分休憩というローテーションで1日体を酷使する。今思い出しても辛くきついバイト(1ヶ月半)だった。 神戸製パンの工場では焼いたばかり出来上がったパンのラインについた。同じラインに背が低く可愛い女の子がいた。学生なのか社員なのかわからない。私がちらちらと彼女を見るので、彼女もその視線に気が付き時々こちらを見る。バイト(1週間)の最後の日になんとか話しかけようとしたが、結局できなかった。いつもいつもそうなのだ。恋愛などできっこない。大事な青春をただ空しく浪費するだけなのだ。 

 つらいバイトだけではなかった。小田急相武台前駅にあったイトーヨーカドー電気製品売り場で当時出たてのカラオケを歌えるステレオセットを実演販売するというものもあった。つまりカラオケで私がいろんな曲を歌うのである。当時一世を風靡していた沢田研二の「勝手にしやがれ」。これを何度も唄った。他にも演歌、ポップス、歌謡曲などほぼ一発勝負で歌詞を見ながら唄った。楽しかった。平日昼間などは誰も聞いていないが私はただひたすら唄った。1週間で一台も売れなかったが、雇い主曰く「それでいいんだ、カラオケの存在を世の中に知らしめるだけでいいんだ」ということだった。

 この年も一単位も取れなかった。後期になってからは家を定時に出るがまた大学に行かず新宿、池袋、高田馬場周辺でうろうろして時間を過ごすダメな自分に戻ってしまった。父との約束は守られなかった。大学の成績表は親には見せず、大丈夫だと言ってごまかした。申し訳ないという気持ちも徐々に薄れていった。いろんな小説を読むとその作者の年譜がとても気になった。作者が若い頃にどのように過ごしたかということが。私のように無意味に無駄に青春期を過ごした作者には強く共感を持った。日本の近代文学にはそういう人が多かった。*11

 私のこのころの無軌道で自堕落な生活は高校3年時の半年間の強烈な受験勉強にその原因があるのではと自分でも気がつき始めた。精神的に病んでいるのではないかという思いがいつもあり、自分が他人に変な人間に見られるのではと常時びくびくしていた。特に大学の授業時に「下級生」たちに私がどう見られているのかということが大いに気になった。話は飛ぶが、高3時の1学期早く英語の授業時に、教室で千枚通しを前の席の級友に急に突き刺すというとんでもない事件が起きた。級友は軽傷だった。私の席が比較的近かったので、その一瞬をまともに見てしまった。やったのは私達より1年上の男子の留年生。彼はいつも誰とも口をきかず完全に周囲から孤立していた。いつも挙措動作が普通でなく、私達も遠巻きに眺めてなるべく刺激しないようにしていたのだが、事件は起きてしまった。学校側は箝口令を敷いたので事件は表沙汰にならなかった。大学に入って精神的におかしくなってしまったと思っていた私は、2年前のその時のことがしきりと思い出されてならなかった。今にもっとおかしくなって、妙なことをしでかすのではという恐怖感が自分の身にまとわりついた。

*10 詩人:萩原朔太郎の孫である萩原朔美も重要な役柄で出演している。
*11 青春期を無為に過ごした最たる作家は安岡章太郎である。28歳で慶応大学を卒業するまで受験不合格と留年の繰り返しで(学徒動員で招集され1年4か月二等兵で過ごし怪我で除隊も含む)大いに気を吐いている。私の大好きな作家である。

B2. 同級(兄)有名人シリーズー中学校篇
中学バレー部の同級のS君とは聞き始めたばかりの洋楽を媒介に仲良くなった。ある日、彼の家に彼の持つレコードを聴きに行った。彼の2歳上の兄もバレー部で背が高く体もごつくエースアタッカーだった。その兄が出てきて部屋に連れていかれ、そのレコードを聴かされた。ピンク・フロイドの「原子心母」だった。分からないながらもその不気味な音楽世界に引き込まれた。兄は卒業後、高専を中退し東洋大学哲学科に入り、庭師などさまざまな職業を経て映画「帝都大戦」の準主役に抜擢され、名が知られるようになった。その後はその特異なマスク(顎が異常に前に出てる)と重厚な演技で映画・テレビドラマで今も大活躍している。彼の芸名は嶋田久作。

27/08/2022

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くおかしく不可思議な早大8年間のリアル」

第4回…愚かな二度目の受験

昼夜逆転の生活が続いた。夜通し中、万年床で本を読み朝になって眠りに就き、午後遅くに眠りを覚ます。空腹に耐えられず台所に行き、冷蔵庫を開けては適当なものを食べ自室に戻り、引きこもる。その当時は「引きこもり」という言葉は巷間に流布していなかったが、私のやっていることはまさに「引きこもり」だった。親はほとんど構わなくなった。父は勤めが、母は店、兄は地元市役所に勤め始め、姉はすでに嫁に出ている。家族内でも「ひとり」だった。週に2、3日だけ映画を見に、ジャズを聴きに小田急定期券を使って都内へ行く。

母は私の部屋を掃除しなくなった。寝たきりでうっすらと饐(す)えた匂いのする綿布団。文庫本とジャズのカセットテープと映画批評雑誌が雑然と積み上げられているその寝床まわり。ティッシュがゴミ箱からあふれ、壁にはお気に入りの映画のチラシがたくさん張られている。北側の窓が片面少しだけ開けられているだけで、他は一日中閉め切っている。私の孤独の王国は限りなく汚く、そして暗い。

文学史に出てくる作家だけではなく、当時旬(しゅん)だった作家もよく読んだ。村上龍が芥川賞を取った「限りなく透明に近いブルー」。扱っている世界は全く違うが、若くさまよえる自分の今の気分に近いものを感じた。中上健次。彼の初期作品には今の言葉で言えば完全に「同期」した。一字一行のことばが心に響き、心底入れ込んだ。兄の本棚に会った高橋和巳作品集。学生時代盛んな頃に学生側に共鳴し、若い世代に支持を得ていた作家だが、40歳前にすでに癌で亡くなっていた。「悲の器」、「憂鬱なる党派」など個人と組織の間の問題に切れ込んだスケールの大きな世界を書いているが、私には作品の中の一人一人のその「悲」の姿に心を動かされた。そして、「堕落」の本家本元である坂口安吾。若い頃に悩み果てた末につかんだその骨太で力強い世界に憧れた。私もいつかはそうなりたいと強く願った。などなど大まかにいえば一日一冊くらいのペースで本に埋没した。誰ともコミュニケーションを取らない日々だったが、活字の中の「人・ひとびと」との会話で毎日充足していた。こうやって家の中で、部屋の中で、床の中での「孤」が深まっていった。酒とたばこも習慣化していった。

8月末になって父が動いた。
「どうするんだ、これから。」 「…。」
「いつまでもこれではいかんだろう。」 「…。」
「やめるんなら、次のことを考えなくてはな。」 「もういちど受験し直したい。」
「どこを受けるんだ。」 「そりゃぁ、早稲田の文学部に決まってる。」

半分苦し紛れだったが、やり直したいという気持ちは確かにあった。父は最後には賛成してくれた。但し、今の学籍を残しての再受験で、失敗したらまた教育学部で勉強し直し、中学の先生になるという約束ならばという条件付きだった。早速、片付けた参考書・ノートを探し出し、机の上の文庫本や映画の雑誌・パンフレットをしまった。はたして、堕落してしまった自分を立て直すことができるのか、今一つ気分に乗れない部分があったが、ともかくもまた半年間の「じゅけん勉強」が始まった。

映画とジャズ喫茶は行かなくなった。本読みと酒とたばこはやめられなかった。酒は父親の買い置きの日本酒を夜中に瓶からかすめ取り、煙草は隣の自転車屋自販機で一日ハイライト二箱。ますますそれらに傾斜がかかった。机に向かっても一年前の必死に食いつくように赤本や受験参考書に向かった気迫は起きなかった。音楽もジャズだけでなく、ラジオからボブ・ディランやスティヴィー・ワンダーなどさまざまなジャンルをカセットに録音し、ヘッドフォンで聞いた。映画は見なくなったが、高校以来購読を続けているキネマ旬報を読んで「飢え」をしのいだ。

こんなことで早大文学部に受かるわけはない。自分でもそう思い、志望校を明大文学部と日大芸術学部にランクダウンした。情けない。そして結局、最後には明大だけを受けた。合格発表日。やはり落ちた。御茶ノ水駅のお堀端の水面を長い時間眺めた。一年前の今頃は絶頂。今はどん底の底の底。父親に従って教員を目指さざるを得ない。が、その気にはなれない。どうしたらいいのか全く分からない。単純に死にたいと思ったが、そんな勇気はなかった。しかたがない。大学に戻ろう。*8

B1. 同級有名人シリーズー小学校篇
海老名小学校4年の頃から、家の前の坂を上がった国分寺台に、相鉄が大規模な戸建ての新築団地の開発を始めた。学校に転校生がどんどん増え始めた。川崎ぜんそくを避けて越してくる家庭が多かった。都心に近い農村の学校が一挙に、都会の色と匂いがする児童の学校に変わり始めた。のんびり遊んでばかりいた私も、負けるものかと勉強に力を入れた。
5年になってからの学級副委員にFさんが選ばれた。色黒で痩せぎすの女の子。面立ちは可愛いのだが、負けず嫌いでその表情はややきつい。担任に色々と仕事を頼まれ、二人よく放課後に居残りをし、終わると学校裏山のがけを上って一緒に下校した。そこで家に帰る道は分かれる。大山(おおやま・伊勢原にある修験道で有名な山)に沈む夕日に照らされて、あたりの草原は黄金色に染まった。6年になると彼女の住む国分寺台団地に新しい大谷小学校ができたので一時離れ離れになったが、中学校になってまた同じ海老名中学になった。しかし、同じクラスや同じ部活動にならなかったので、口をきく機会はなかった。
彼女はその後、美大に行きイラストレーターとなった。そして、十数年後にテレビの「ケンミンの焼きビーフン」というコマーシャルでの奇妙なイラスト書きで有名になった。他にも彼女の描くイラストは新宿繁華街の人たちや、老婆老爺の裸など世間の裏側で生きる人たちが多かった。精密でいながら非現実的な感じのするものばかりで、私が感じていた彼女のイメージとは全く相入れないものばかりだった。
その後の彼女を知るべく彼女とつながりのあった何人かの人に話を聞いても、今の彼女を知る人はいなかった。しかし、どうやらハワイに住んでいるらしいということは分かった。死ぬまでに会って昔のことを話してみたい。私の大きな宿題だ。

*8. 私の家・店は国道246(その当時)と県道が交わる十字路(それで小字は辻)の角にあって、昼間は通り過ぎるトラックやバスの音が喧しかった。そして自室すぐ横は大きなトラック10台ほどの運送会社駐車場で、早朝は発車する前のトラックのアイドリング音。夕方以降は駐車するトラックのピーピーという警報音や運転手同士の大きなだみ声があたりに響いた。高3受験時はそれもさほど気にならなかったが、二度目の受験時はこれらが甚だしく私の脳や心を脅かし、勉強どころではなかった。「うるせー、勉強できねーよ。静かにしてくれー」と窓をあけて叫んでみても誰も聞いてくれず、全く無駄だった。

*9. 第2回に出てきた美術の加藤先生はFさんの受験のために絵の個人レッスンをつけたという。先生曰く、「かなり昔のことであまり覚えてないけど、かわいい子だった。けど、なんだか変わった子だったね、彼女は」。 @次回第五回は来週金曜夜に公開

19/08/2022

「キイチ青春ドキュメント」―その暗くておかしく不可思議な早大8年間のリアル」

第3回…地獄に落ちる名画座通い

私の入った早大教育学部は早稲田の中でも少し特異な学部だ。ほとんどの人が将来、教職もしくはそれに準ずる仕事に就くためにこの学部を選ぶので、真面目でおとなしい学生が多い。入学後、自分とは少し違うなと感じた。はちゃめちゃで天衣無縫、酒を飲んでは大声で議論し合い、はては喧嘩迄してしまうというような、荒ぶる早大学生たち。そのイメージからは遠く離れていた。

1976年。学生運動の盛んな時期から遠く時が過ぎていた。私たち世代はいわゆる三無・六無主義世代と呼ばれていた。それでも学内には革マルや中核派の内ゲバ、民青(共産党系)、そして原理研(統一教会)の一般学生への積極勧誘などがあたりでかまびすしく、成田空港工事をめぐる三里塚闘争などには一般ノンポリ学生にも参加する人が多くいた。私はひそかに学生運動に関心を持っていたが、そこまでは踏み込むことは出来なかった。

入学後3週間ほどは科目登録したすべての授業に顔を出したが、どれも期待したほどでなく、なんとなくダルな気分になって自然と足が遠ざかった。有名な近代文学史の紅野教授は「文学をやるものはこんな授業に出てはだめだ。家でこもって本を読むんだ」とかアジるのだが、私がその通りにしてみたらば、単位はくれなかった。同じクラスで親しく話をする人は何人かいたが、今のようにスマホで電話番号やメアドを交換することなどしないので、しだいに教室から遠ざかっていく私に手を差し伸べる人はいなかった。

サークル活動は当初の予定通り、映画研究部に入った。シネマ研究会という早大文化部の中でも当時最も活発なサークルだった。同級の山川直人監督が、その後女優としてメジャーになる室井滋を起用して自主製作映画を作り、「ぴあ」フィルム・フェスティヴァルで注目を浴びるようになるなど、その後になってどんどんメジャー化していった。私はその中でも出版部という最も地味な部門に入った。最初のサークル説明会の時に、その出版部にボブ・ヘアーにパープルのスーツというとても先端的・ファッショナブルな格好をして目立つ姿の女性がいた。その人に躊躇なく惹かれその部に入った。厚高から一緒に早大商学部に入ったU君も同じ出版部に入った。先輩は他に男性が二人だけ。入部したのは私とU君ともう一人。結局、その女性は就職活動で忙しいらしく、以降の部の活動にはほとんど顔を見せなかった。まったく、詐欺だ。*7
 
 入学後、はたして私は浴びるように映画を見た。多くの都内名画座に出入りした。新宿は歌舞伎座奥のビルの5Fにある「名画座ミラノ」、アクション洋画上映が専門で今のアルタ裏にあった「テアトル新宿」、ATGという日本の独立系芸術映画を上映した「新宿蠍(さそり)座」、東映やくざ映画専門の「新宿昭和館」、その下にあるピンク映画専門の「昭和館地下」。二つは競馬の馬券売り場の近くにあって、肉体労働者が多くたむろっていた。もちろんお膝元、高田馬場駅と早大の中間地点にある「早稲田松竹」は青春映画が多く、駅そばの「高田馬場パール座」も古い洋画などを上映した。昔の日本映画の名作上映の「銀座並木坐」、今も名画座の雄である「池袋文芸坐」と「文芸坐地下」などなど。母親に参考書を買うと言っては、安いながらも数多く通う名画座に入るための入場料をもらった。罪悪感にかられながらもほぼ毎日、夢中になって映画を見続けた

 出版部で出すガリ版刷りの映画批評同人誌には、自分の見た映画のコメントや感想を書いて載せた。私のへたくそな字で刻んで印刷した映画評など誰も読むことなどはないのだが、精一杯の思いを込めて文を綴った。自主製作映画がブームとなり、周りはそれで持ちきり。私も春休みのバイトで稼いだお金で8ミリカメラを買い、シネマ研究会のロッカーに入れておいたのだが、なんと盗まれてしまった。以降、私はただひたすら映画館に通い、自分の眼鏡にかないそうな映画を見続けた。充実した日々だった。

 朝、大学に行くふりをして新宿や池袋などに行き、名画座で二本立てを見る。その後は大学に行き、サークルのたまり場である商学部4号棟1Fのソファに座り、置いてある各部の同人誌などを見たり、集った研究会のメンバーと見た映画の感想を語ったりした。といっても、私はそのころはもうすでに人の目を見たり、知らない人と話したりすることができず、他の人の話をそっと聞くだけだったが…。

 五月の連休を過ぎたころ、サークル先輩の紹介で日活ロマンポルノのエキストラとなった。早慶戦応援のシーン。映画主人公カップルの後ろで、慶応大学の応援をしている学生の役だった。私とU君が出た。タイトルは「濡れて立つ」。ギャラはもらった記憶がない。その後に出版部の先輩二人とU君と新宿歌舞伎町に出て、しこたま飲んだ。先輩の彼女も来て盛り上がり、みんなで飲みまくった。新宿ミラノ座前の噴水池に入り、「早慶戦の後の新入生の洗礼だ~」と言われて水を浴びせられ、ぐしょぐしょになった。その夜は西武新宿線の沼袋にある先輩のアパートに泊まった。今から思うとこれがいけなかったのかもしれない。苦労して早大に入って、あこがれの早慶戦で敵の慶大の応援をするなんて。これで青春の、いいや人生の鍵を掛け違えたのだ。

 深夜のFM東京「アスペクト・イン・ジャズ」という2時間番組で油井正一が語るジャズ・ミュージックに心を奪われ始めた。特に、マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンとマル・ウォルドロンの三人の黒人が出す「音」には何か特別に響く「音のいざない」があり、カセットに録音しヘッドフォンで何度も何度も聞いた。そのうち、なけなしの金をはたいてジャズ喫茶のドアを開けた。その音の洪水は私を魅了した。主に早大の最寄り高田馬場駅近くの「イントロ」という店に行った。ジョン・コルトレーンのレコードをほぼコンプリートで集める店でマスターは雑誌「スイング」にもよく出ている人。珈琲一杯で二、三時間近くねばり、さまざまなレコード・ジャケットを眺めながら、全身全霊で聴いた。名画座とジャズ喫茶。大学ではなく、そこが私の教室だった。もはや大学に私の居場所はなかった。

 そうやって私は確実に「堕落」していった。学業の「が」の字もなかった。初めは朝7時に家を出て8時半の1限の授業に出ていたが、そのうち少しづつ家を出る時間が遅くなっていった。宵っぱりで本を読むこともいけないのだが、小田急の朝の殺人的なラッシュが本当にいやでたまらなかった。5月半ばには9時ごろに家を出て、映画とジャズ喫茶をはしごし、サークルたまり場に少しだけ顔を出し、夜7時ごろ家に帰った。春休みに貯めた金も底をつき、母の財布からそっと抜くようになってしまった。こんなことではいかんと思いながらも止まらなかった。そのうち、サークルにも顔を出さなくなり、私の一人だけの無為な時間つぶし(自分ではそうは思わないが)は益々と自家中毒的になっていった。そして、ある日ついに母に言われた。

「大学に行ってんのかい」 
「うん、そこそこ行ってる、早稲田はそんな一生懸命授業出なくても、試験に受かれば単位はくれるんだ。」
「そんなもんかい。でもね、小遣いは要るならちゃんと言っておくれ。こそこそするのは良くないよ。」

まったくもって頭が上がらない。64歳の今考えても冷や汗が流れ、涙腺がゆるむ。母に父にはただひたすら申し訳なく、返す言葉がない。今に至ってもこの時のことが忘れられず、夜中に「あー」と声を上げ、ガバッと布団を上げて眠りを覚ます。餓鬼道、地獄道に落ちるべき所業だ。今回のこの私のドキュメントは父母に対する懺悔の気持ちを世間に公開する意味もある。「いいだきいち」は本当に情けのない、どうしようもない男です。その罪は永遠に消えることはありません。

*7 U君とはその後もずっと交遊が続いている。もはや近所、親戚などより近い関係かもしれない。

@第2回目以降はこの「さがみ国分辻書房」に載せています。*第1回はおなじくFB「飯田基一」に。
@来週は黄斑円孔という眼病の手術入院のため金曜でなく土曜夜に公表します。

12/08/2022

「キイチ青春ドキュメント」ー早大8年間、その暗くおかしなリアル

第2回・・・入学前の春休み 

+注記が多くなってしまったので本文を短くしました。

 憧れの早稲田大学に入る前の春休み。10時間勉強で燃え尽きたらしく、ぼーっとテレビを見ているだけの私を見て、父は厚木の中規模の工場のバイトを勧めた。工場の隅の棚にある多くのネジの在庫数を数える仕事、いわゆる棚卸しだ。誰にでもできる本当に簡単な仕事である。*5

 出社してタイムカードを打ったら、一人だけでただ黙々とねじを数える。昼休みは工場裏にあるベンチで母に作ってもらった弁当を食べ、終えると入学してから困らないようにと近代文学の名作を文庫でむさぼるように読んだ。例えば、堀辰雄の「風立ちぬ」。軽井沢の高原にあるサナトリウムで婚約者の死をみとる話。共感できる話ではなかった。目の前の、工場の廃品置き場わきの空き地に咲くヒメジオンが春のそよ風にゆらいでいる。

 誰とも話すこともなく一日を終えるバイトは一ヶ月で終わった。生来、人と交わることが得意ではない私だが、この一ヶ月でますます人ぎらいになったようだった。私ははたして大学で熱中できることを見つけられるであろうか。人に合わせてうまくやっていけるであろうか。夢を語り合える友達が見つかるであろうか。獏然たる不安を抱えながらも高校最後の春休みは終わった。

*A. 前回の注の追加
 中学でのバレーボールは、男子日本代表(松平監督、猫田、大古、森田、嶋岡選手など)がミュンヘン・オリンピックでの優勝を勝ち取ったころで、それに影響されて日本中のバレーボール部が猛練習に打ち込んでいた。わが部でも内山さんという国士館大学の先輩学生が毎日のように現れて、一年365日男女ともにその厳しい指導をびしびしと行った。が、最終年3年の地方大会の一回戦で隣町綾瀬中学に簡単に敗れ、みんな一体あのつらく厳しい練習は何だったんだという思いにとらわれた。
 内山さんはその後すぐ海老名市内の小学校の教員となられたのだが、一学期三カ月だけで病床に就き、翌年には亡くなってしまった。白血病だった。
 38年後、私がたまたま海老名市選出の県会議員:長田進治のホームページをのぞいていたら、なんと「内山先生の思い出」として1ページをさいて内山さんとの思い出を語っているではないか。議員が小学校3年の時に先生一年目の内山さんが担任だったらしい。3カ月だけ。なのに子供たちに大きな印象、思い出を与え、議員は今でもそれを自分の生きる礎としているらしいのだ。
 早速お電話さしあげ、そのころの中学バレー部OB・顧問の先生を集め、同級部員本多君の串揚げ:ぶらんにゅー亭で議員を囲んで思い出話に花を咲かせた。
 私は今もそのころのバレー部顧問:佐藤平弥先生77歳(英語)とは週1でテニスをし、その後の顧問:加藤柳一先生73歳(美術)とも週1の油絵教室でお世話になっている。どうやら生涯、海老中バレー部とは縁が切れないらしい。ずっと補欠だったのだが。

**2. 前回注2の補記
 義祖母であり実の伯母である「しんちゃん」については補足せねばならないことが多くある。
「しん」と他8人の兄弟姉妹の母:飯田キクは明治期初めに海老名国分村に生まれた。大山街道の辻宿にある茶店の看板娘であった。そこへ座間新田宿の大工の棟梁:高橋忠治が仕事の合間にお茶を飲みに来て彼女を見染めた。キクは一人娘、忠治は長男。どちらの家も嫁・婿に出したくない。そこで飯田家側から「夫婦に最初に生まれた子に飯田の茶店を継がせる」という折衷案が出された。そして最初に生まれたのが、「しん」であった。
 しんは茶店=菓子店を守るべくひとり八面六腑で頑張った。それで男勝りに磨きがかかりすぎ、結婚相手が見つからなかった。そして復員後、戦時中に座間の陸軍経理学校(いまの座間キャンプ)で知り合った母と結婚した末っ子の父を養子にという白羽の矢が立ったのである。
 茶店=菓子店を母に引き継いだ後もしんの店での権勢は衰えず、町会・県会議員や任侠関係の人、旅芸人、かつぎや、寅さんのようなテキヤ,乞食に至るまで、ありとあらゆる職業・階層の人がしんに会いに店に来て、お茶やコップ酒片手に暫く話をしていくのであった。中には家に上がりこみ、しんと花札を引く輩も多くいた
 しんは大工の子であるだけに鯔背(いなせ)で派手なことが大好き。木遣りを歌い、日本舞踊を踊り、祭りや運動会ではいつも来賓席に座り、あたりを睥睨する。まったく目立つことこの上ない。私が50メートル走に出るときなどは、いつも天にも届くほどの大声で「きいちー、きいちー」とグラウンドまで出てきて応援することはなはだしく、しまいには「おばあちゃん、もう応援に来なくていいからね」と私に言われる始末であった。*6
 長姉として下7人の弟妹の様子(同居の父は除く)を見に行くことも彼女の大事な仕事だった。勿論そのときは小さな私をお供として連れていく。20人を超えるいとこの中では私が最年少である。「きいぼう、きいぼう」と呼ばれ、伯父・伯母・従兄・従姉みんなにかわいがれた。
 そんな元気な祖母も晩年は咽喉がんで苦しみ、長い闘病の末に私が高2の時、73歳(1974年)で亡くなった。亡くなる数日前に病院に見舞いに行くと、ベッド上から財布を出し、「きいち、これで帰りにかつ丼でもお食べ」と言って500円玉を渡してくれた。それがしんとの最後の会話だった。

*5. 父は戦時中、宮中の近衛兵勤務と陸軍経理学校の後に陸軍曹長として広島勤務を命じられ、そこで被爆した。偶々前日からの腹痛で新設コンクリート造りの陸軍広島病院に入院中をしていたので、直接的な被爆は避けることができた。翌日から小学校校庭に被爆死体を集め、ガソリンをかけ焼く作業についたが、彼に被爆による大きなダメージは現れず、戦後も普通に健康人として過ごした。
 私たち三人兄弟は姉が小児麻痺、私に子供が出来なかったという以外はいたって健康で、兄などはずっと健康優良児として表彰されていた。
 父は座間新田宿に復員後、職業安定所の仕事につき定年まで勤めあげ、80歳で天寿を全うした。よって、私に近くの工場のバイトの世話することなど他愛もないことだった。以降、大学時代に計4回、父の世話で厚木市内の中小工場のバイトをした。すべて最底辺の、誰にでもできる簡単なバイトばかりだった。

*6. 私の名「基一(きいち)」は、私が昭和32年(1957年)12月25日生まれなので、基督(キリスト)にちなんでつけられた。といって親がキリスト教徒というわけでは全くない。
 小学生高学年になると、母が夕餉の用意をするときに代わりに一時間ばかり店番をすることがあった。店に次から次へと来る客に煎餅、駄菓子、和菓子、洋菓子、ジュース、アイス、菓子パンなどを売るのである。そのころは量り売りが主で、正しく計量器で量って紙袋に包んで渡す。これを毎日のように繰り返した。
 クリスマスイヴの晩の夜7時ごろ、夕餉の支度を終えて店に戻った母は私に、「きいち、ご苦労さん。今日は誕生日だね。おめでとう。これは余ったケーキだけど、たくさん食べておくれ。」と言って、私の前に山崎パン製の大きなデコレーション・ケーキを2、3個、ドンと置くのであった。最初のうちは喜んでほおばっていたが、そのうちケーキは私の苦手となってしまった。

*次回以降も金曜夜に投稿します。乞う、ご期待あれ!

04/06/2022

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