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風姿花伝 第一 五十有余本文 この比よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申す事あり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数はみな々失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。 亡父にて候ひし者は、五十二...
09/10/2026

風姿花伝 第一 五十有余

本文

 この比よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申す事あり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数はみな々失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。
 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそ、その比、物数をば早や初心に譲りて、やすき所を少な々と色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり。これ、誠に得たりし花なるが故に、能は枝葉も少く、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。
 
 年来稽古以上

訳

 この頃からは、殆ど、何もしない以外に手立はない。「麒麟も老いては駄馬に劣る」とものの本に申すではないか。とは云うものの、真の能の体得者であれば、やれる演目こそ悉くなくなってしまい、何はともあれ見どころは少なくなるが、花は残るであろう。
 亡き父であった者は、五十二の年の五月に死去したが、その月の四日の日に、駿河の国の浅間神社に能を奉納した際、その日の申楽は、殊の外華やかで、見物客は身分の上下にかかわらず、一同こぞって褒美を遣わしたものだ。ほぼその頃には、かつて演じていた演目は若い者に譲り、容易な箇所をほんの少しづつ色を添えて演じたが、花は以前にも増して見えたのである。これは、真実身につけた花であるがゆえに、能自体は枝葉もなくなり老木と成り果てるまで、花は散らずに残っていたのだ。これぞしかと目の当たりにした老骨に残った花の証拠であった。
 年を追う毎の稽古については以上。

風姿花伝 第一 四十四五本文 この比よりの能の手立、大方変るべし。たとひ、天下に許され、能に得法したりとも、それに附けても、よき脇の為手を持つべし。能は下らねども、力なく、やうやう年闌けゆけば、身の花も、外目の花も、失するなり。先づ、優れた...
08/10/2026

風姿花伝 第一 四十四五

本文

 この比よりの能の手立、大方変るべし。たとひ、天下に許され、能に得法したりとも、それに附けても、よき脇の為手を持つべし。能は下らねども、力なく、やうやう年闌けゆけば、身の花も、外目の花も、失するなり。先づ、優れたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りては見られぬものなり。さるほどに、この一方は欠けたり。
 この比よりは、さのみに細かなる物まねをばすまじきなり。大方、似合ひたる風体を、安々と、骨を折らで、脇の為手に花を持たせて、あひしらひのやうに、少な々とすべし。たとひ、脇の為手なからんに附けても、いよいよ、細かに身を砕く能をばすまじきなり。何としても、外目花なし。もし、この比まで失せざらん花こそ、誠の花にてはあるべけれ。
 それは、五十近くまで失せざらん花を持ちたる為手ならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ、天下のゆるされを得たる為手なりとも、さやうの上手は、殊に我が身を知るべければ、なほなほ、脇の為手を嗜み、さのみに身を砕きて、難の見ゆべき能をばすまじきなり。かやうに我身を知る心、得たる人の心なるべし。

訳

 この時期から、能の演じ方は大抵変わってくる。たとえ世の中に認められ、能を自家薬籠中のものとしていても、それでもやはりいい脇の仕手を持つべきだ。能自体が下手になるわけではないが、動作に漲る力がなく、段々と年を取ってゆけば、身体が醸し出す花も、人の目に映る花も、失せてゆくものなのだ。そもそも、よほどの美男ならいざ知らず、素顔で演じる申楽は、年を喰ってからは見られたものではないのだ。それくらい、直面で演じることはありえない。
 この年齢あたりから、熱心に事細かな物真似はするべきではない。大体において、自分に似合った風体を、飄々と肩の力を抜き、脇の仕手に花を持たせながら、添え物のように少しづつ見せるのがよい。たとえ脇の仕手がいない場合でも、もうこれからは一層細やかな身を粉にするるよな能はしてはならない。なにしろ外目から判る花がないのだ。もし、この頃まで消えてなくならない花こそ、真の花ではあるのだろうが。
 と云うのも、五十近くまでなくならない花を持っている仕手ならば、既に四十前に天下に轟く名声を得ているはずだ。たとえ、世間に認められている仕手であろうと、そこまでの手練れであれば、殊に自分の力量を熟知していだろうから、それでもやはり、脇の仕手を育て上げ、このことだけに心身を砕き、難が目立つような能を演じてはならない。かくの如く自分の身の丈を知る心が、能を会得した人の心であろう。

風姿花伝 第一 三十四五本文 この比の能、盛りの極めなり。ここにて、この篠々を極め覚りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得つべし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、未だ、誠の花を...
05/10/2026

風姿花伝 第一 三十四五

本文

 この比の能、盛りの極めなり。ここにて、この篠々を極め覚りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得つべし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、未だ、誠の花を極めぬ為手と知るべし。もし極めずば、四十より能は下るべし。それ、後の証拠なるべし。さるほどに、上がるは三十四五までの比、下るさがるは四十以来なり。返す々、この比、天下の許されを得ずば、能を極めたりと思ふべからず。
 ここにて、なほ慎むべし。この比は過ぎしを方をも覚え、また、行く先きの手立をも覚る時分なり。この比極めずば、この後、天下のゆ許さらを得ん事、返す々難かるべし。

訳

 この頃の能は最盛期にあたる。この時期に、これら一つ一つの条項を極めて悟達の境地に至り、円熟すれば、間違いなく天下に認められ、名声を得るだろう。もしこの時期に、天下に充分認められず、名声も思ったほどでないとしたら、いかに手練れであろうと、未だ真の花を極めていない仕手と思い知るべきである。もし極めることが出来なければ、四十以降、能は下り坂となるであろう。それは後々自ずと証拠となって現れるはずだ。それ程までに、上るのは三十四、五の歳まで、下ってゆくのは四十以後ということだ。返す返すも、この年齢の頃に天下に認められなければ、能を極めたと思ってはならない。
 ここにおいては、尚一層身を慎まねばならない。この時期は、過ぎ去りし苦悩の日々の意味が明らかとなり、同時に先行きの予測もつくようになってくる頃なのである。この時期に極められなければ、その後に天下の名声を得ることは、繰り返し云うが至難の業であろう。

風姿花伝 第一 二十四五本文 この比、一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに、稽古の境なり。声も已に直り、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり、声と身なりなり。この二つは、この時分に定まるなり。年盛りに向ふ芸能の生ずる所なり。...
01/10/2026

風姿花伝 第一 二十四五

本文

 この比、一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに、稽古の境なり。声も已に直り、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり、声と身なりなり。この二つは、この時分に定まるなり。年盛りに向ふ芸能の生ずる所なり。さるほどに、外目にも、すは上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。本、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、返す々、主の仇なり。これも誠の花には非ず。年の盛りと、見る人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利きは見分くべし。
 この比の花こそ初心と申す比なるを、極めたるやうに主の思ひて、早や、申楽にそばみたる輪説をし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。たとひ、人も讃め、名人などに勝つとも、これは、一旦珍しき花なりと思ひ覚りて、いよいよ、物まねをも直にし定め、なほ得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば、時分の花を誠の花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり、ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて、花の失するをも知らず。初心と申すはこの比の事なり。

一、公案して思ふべし。我が位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は一期失せず。位より上の上手と思へば、本ありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。

訳

 この頃が、一生の芸能の有様が定まる最初の時期にあたる。それ程までに、稽古においては大事な境目となる。声もすでに安定し、身体つきも出来上がる年頃だ。さて、この道には二つの授かりものがある。声と体躯がそれだ。その二つはこの時期に定まる。最盛期に向う芸能が生まれる時なのである。だからこそ、外から見ても、なんという芸達者が登場したのかと、人目を引くのだ。一世を風靡した名人と共演しても、その時点の花が珍しいがために、競って勝つようなことが一度でもあると、周りも買い被り、当の本人までもが自分は上手なのだと思い始めてしまう。これは返す返すも本人にとって仇となる。これまた真の花ではない。溌溂とした年齢と、見る人のいっ時の錯覚による一風変わった花に過ぎない。本物の目利きなら容易く見抜いてしまうだろう。
 この時期の花こそ初心と称すべき花であるのに、あたかも極めたかの如く本人が勘違いし、早々と申楽の道から逸れた分かったふうな口を利いて、名人ぶった振る舞いをするのは浅ましい事だ。たとえ人から褒められ、名人に勝つようなことがあろうとも、これはあくまでもいっ時の珍しい花に過ぎないのだと自覚して、より一層物真似もきちんと出来るように心掛けると共に、芸を極めた人に事細かく訊ね、更に稽古量を増やすべきである。要するに、その時限りの花を真の花と思い込んでしまう心が、真実の花からますます遠ざかってしまう心なのだ。ただ、大抵の人はこの時期の花に幻惑され、やがて花が消え失せてしまうのも知らない。初心と云うのは、この時期の事である。

一、智慧を絞りじっくり考えるべきである。己の身の程をよくよく心得ていれば、それくらいの花なら生涯失せることはない。分不相応なほどの上手だと自惚れてしまえば、元々持っていたはずの花までも失ってしまうことになる。重々心得ねばならない。

風姿花伝 第一 十七、八より本文 この比は、また、余りの大事にて、稽古多からず。先づ、声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし比の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変りぬれば、気を失ふ。...
28/09/2026

風姿花伝 第一 十七、八より

本文

 この比は、また、余りの大事にて、稽古多からず。先づ、声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし比の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変りぬれば、気を失ふ。`結句、見物衆もをかしげなる気色見えぬれば、恥かしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。
 この比の稽古には、ただ、指をさして人に笑はるるとも、それを顧みず、内にては、声の届かん調子にて、宵、暁の声を使ひ、心中には、願力を起して、一期の堺ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。
 惣じて、調子は声によるといへども、黄鐘、盤渉をもて用ふべし。調子にさのみかかれば、身なりに癖出で来るものなり。また、声も、年よりて損ずる相なり。

訳

 この頃は、大事にし過ぎるために、稽古はさほど多くない。まず声変わりするので、一番目の花は既に消え失せている。身体つきも腰高になり、童形時代の風情がなくなって、それまでとびきりの声で華やかにやすやすとこなしていた時期からの過渡期にあたり、身のこなしががらりと変わるため、やる気を失ってしまう。結果的に、観衆も面白がっているような雰囲気が見えると、恥ずかしいなどと云いだして、何や彼やあった挙句、この段階でやる気を失くしてしまうのだ。
 この頃の稽古においては、たとえ人から指差されて笑われようともひたすら気に掛けることなく、夜、朝の発声練習を心掛け、心中固く誓い、人生を左右する境目はここなのだと、一生涯能を捨てないことより他には、稽古してはならない。この時点で能を捨ててしまえば、そのまま能の上達は止まってしまうだろう。
 総じて、調子は当人の声次第だが、黄鐘から盤渉の音階を用いるのがよい。調子にこだわり過ぎると、姿形に妙な癖が出てくる。また声も、年取ってから上手く出なくなる傾向がある。

風姿花伝 第一 十二、三より本文 この年の比よりは、早や、やうやう、声も調子にかかり、能も心づく比なれば次第々々に、物数をも教ふべし。先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。声も立つ比なり。二つの便りあれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ...
22/09/2026

風姿花伝 第一 十二、三より

本文

 この年の比よりは、早や、やうやう、声も調子にかかり、能も心づく比なれば次第々々に、物数をも教ふべし。先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。声も立つ比なり。二つの便りあれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり。
 大方、児の申楽に、さのみ細かなる物まねなどは、せさすべからず。当座も似合はず、能も上がらぬ相なり。ただし、堪能になりぬれば、何としたるもよかるべし。児と云ひ、声と云ひ、しかも上手ならば、何かはわろるかるべき。
 さりながら、この花は、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。この比の稽古、やすき所を花に当てて、能をば大事にすべし。働きをも確やかに、音曲をも、文字にさはさはと当り、舞をも、手を定めて、大事にして稽古すべし。

訳

 このあたり歳から、早段々と声も調子が伴い始め、能に対する心構えも出来てくるので、順を追って音曲の数々を教えるようにせよ。そもそも童形なので、何をさせても幽玄なのである。声もくっきりとしてくる。この二つが兼ね備わっているため、悪い面は目立たなくなり、いい面はますます花やいでくるのだ。
 大体において、子供の申楽に、それほどまでに事細かな物真似などはさせてはならない。その時点でもちぐはぐで、能の上達も見込めない素地が出来てしまう。ただし、熟達してくれば、何をさせてもかまわない。童形の上に上手であるなら、悪かろうはずがない。
 とは云え、この花は、本物の花ではない。ただその時季だけの花なのだ。そういうわけで、この時分の稽古は、何もかもが実に容易い。だからと云って、生涯における能の価値を定める基準とはならないのだ。この時季の稽古は、演じやすい所を目立たせるようにし、技を磨くことに重きをおくようにすべきだ。一つ一つの動作を確かなものとし、音曲に関しても一語一語の言葉がすっきりと聞こえるように謡い、舞もまたきちんと型に則って、心して稽古すべきである。

風姿花伝 第一 七歳本文この芸において大方七歳をもて初とす。この比の能の稽古、必ずその者自然とし出だす事に、得たる風体あるべし。舞、所作の間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うちまかせて、心のままにせさすべし。...
21/09/2026

風姿花伝 第一 七歳

本文

この芸において大方七歳をもて初とす。この比の能の稽古、必ずその者自然とし出だす事に、得たる風体あるべし。舞、所作の間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うちまかせて、心のままにせさすべし。さのみ、よき、あしきとは教ふべからず。余りにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能ものぐさくなり立ちぬれば、やがて能は止まるなり。
 ただ、音曲、働き、舞などならでは、せさすべからず。さのみの物まねは、たとひすべくとも、教ふまじきなり。大場などの脇の申楽には立つべからず。三番、四番の、時分のよからんずるに、得たらん風体をせさすべし。

訳

 この芸においては、大体七歳になって始めるものとする。この年齢の能の稽古は、必ずその者の自然な立ち居振る舞いの中に、お得意の動作というものがあるはずだ。舞や身体の反応、音曲を耳にした折でも、怒る事があった時でもよい、ふと出てしまった仕草の取っ掛かりを、やりたいようにやらせ、本人の心の赴くままにさせておくべきである。妄りにいいだの悪いだのと教え諭してはならない。あまりに注意し過ぎれば、子供はやる気をなくし、能を面倒くさいものと感じだすと、やがて能の上達は止まってしまう。
 ただし、音曲、所作、舞などといったもの以外は、やらせてはならない。そう無闇に物真似は、たとえ出来るとしても、教え込んではならない。大事な舞台で、最初に演じられる脇能の申楽には出させてはならない。三番目か四番目あたりの演目の、ちょうどよい時機に、得意とする動作をやらせるべきである。

風姿花伝 本文序 それ、申楽延年の事態、その源を尋ぬるに、あるひは仏在所より起り、あるひは神代より伝はるといへども、時移り、代隔りぬれば、その風を学ぶ力及び難し。近比、万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、か...
18/09/2026

風姿花伝 

本文

序

 それ、申楽延年の事態、その源を尋ぬるに、あるひは仏在所より起り、あるひは神代より伝はるといへども、時移り、代隔りぬれば、その風を学ぶ力及び難し。近比、万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮りて、この遊びの媒とせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日、日吉の神職たり。よつて、和州、江州の輩、両社の神事に従ふ事、今に盛んなり。
 されば、古きを学び、新しきを賞する中にも、全く、風流を邪にすることなかれ。ただ、言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを、承けたる達人とは申すべきか。先づ、この道に至らんと思はん者は、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もっともこれを用ふべし。およそ、若年より以来、見聞き及ぶところの稽古の條々、大概注し置くところなりり。

一、好色、博奕、大酒、三重戒、これ古人の掟なり。一、稽古は強かれ、好色 博奕 大酒 三重戒これ古人の掟なり。

一 稽古は強かれ 諍識はなかれとなり。

訳

 長寿を願って舞う申楽という芸能は、その源流を尋ねてみると、或いは釈迦のいらっしゃった国から生まれたとも、また或いは神代の昔より伝わるものとも云われるが、時は流れ、時代が大きく離れておるため、その流儀作法を学ぶのは難しい。昨今、万人が愛で楽しむ様式は、推古天皇の御代に、聖徳太子が秦河勝にお命じになり、天下泰平のためであると同時に人々の娯楽のために、六十六番の饗宴を催された際、この芸能を申楽と名付けられてからこの方、代々の人達が風月の景観を借りてこの遊宴の媒介としてきたのである。その後、河勝の子々孫々がこの芸道を受け継ぎ、春日神社と日枝神社の神職を勤めるようになった。よって、大和国、近江国の同輩達は、両社の神事に今なお熱心に参加しているのである。
 それゆえ、古来よりの芸を学び、新たな技法を賞賛し取り入れる中においても、絶対に風流を捻じ曲げるようなことがあってはならない。ひたすら賤しい言葉を遣わず、その姿が常に幽玄を保っている人のことを、伝統の正しい継承者と云うのではなかろうか。まず第一に、この道を極めようと思う者は、それ以外の道を修めようとしてはならない。ただし、歌道は風月に託した長寿の芸に花を添えるものであるから、極力これを用いるべきである。こういった諸々は、年少の頃より見聞きしてきた稽古における留意事項を、ざっと書き記したものである。

一、好色、博奕、大酒、この三つの戒めは、亡き父の定めた掟である。

一、稽古においては強い意志を持ち全力を尽くせ、慢心による思い上がった行動があってはならない。

[春雨物語]『樊噲』本文 広き所へ連れ行きて、血を拭き、手足洗はせて、とりつくろひ、ものだにいはせずして、走りかけり行く。江戸を離れて見れば、金包みし苞はなし。「落とせしぞと思へど、帰りても得られまじ。おのれらに損見ること。得させしもあるま...
12/09/2026

[春雨物語]

『樊噲』

本文

 広き所へ連れ行きて、血を拭き、手足洗はせて、とりつくろひ、ものだにいはせずして、走りかけり行く。江戸を離れて見れば、金包みし苞はなし。「落とせしぞと思へど、帰りても得られまじ。おのれらに損見ること。得させしもあるまじ」と問へば、「博奕に負け、遊び所に、酒の価に、蒔き尽したれば、けふはかの侍が懐の物とりて、ここにあり。金あるまじけれど、酒代ばかりは」とて見れば、わづかな金一分あり。これにて、また酒買ひ、ふぐと汁食ひ飽きて、「江戸には出でがたし」とて、車をさして行くゆく。
 下野の那須野の原に、日入りたり。小猿、月夜いふ。「この野は、道ちまたにて、暗き夜には迷ふこと、すでにありき。ここにしばらく休み給へ。案内見て来ん」とて走り行く。殺生石とて、毒ありといふ石の垣のくづれたるに、火切りてたきほこらしをる。
 僧一人来たる。目もおこさで過ぐるさま、憎し。「法師よ。物あらば食わせよ。旅費あらば置いて行け。むなしくは通さじ」といふ。法師立ちどまりて、「ここに金一分あり。取らせん。食ふ物は持たず」とて、裸金を樊噲が手に渡して、返り見もせず行く。「行く先にて、若き者ら二人立つべし。『樊噲に会ひて、物贈りし』というて過ぎといふ」。「応」と答へて足静かに歩みたり。
 片時にはまだならじと思ふに、僧たち帰りて、「樊噲おはすか。我発心の初めより、いつはりいはざるに、ふと物惜しくて、今一分残したる、心清からず。これをも与ふぞ」とて、とり与ふ。
 手にすゑしかば、ただ心寒くなりて、「かく直き法師あり。我、親、兄を殺し、多くの人を損ひ、盗みして世にあること、あさまし、あさまし」と、しきりに思ひなりて、法師に向ひ、「御徳に心改まり、いまは御弟子となり、行ひの道に入らん」といふ。法師感じて、「いとよし。来よ」とて、連れだち行く。
 小猿、月夜出で来たる。「おのれら、いづこにも去り、いかにもなれ。我は、この法師の弟子となりて、修行せん。襟元の虱、身につくまじ。また逢ふまじきぞ」とて、目おこせて、別れ行く。「無益の子供らは捨てよかし。懺悔、行くゆく、聞かん」とて、先に立ちたり。
 この物がたりは、みちのくに、古寺の大和尚、八十よの齢して、けふ終らんとて、湯あみし、衣改め、倚子に坐し、目を閉ちて、仏名をさへ唱へず。侍者、客僧らすすみて申す。「いと尊し。遺偈一章示したまへ」と申す。
「遺偈といふは、皆いつはりなり。まことの事語りて、命終らん。我は伯耆の国に生れて、しかじかの悪徒なりし。ふと思ひ入りて、けふに至る。釈迦、達磨も我もひとつ心にて、曇りはなきぞ」とて、死にたりとぞ。
「心納むれば誰も仏心なり。放てば妖魔」とは、この樊噲のことなりけり。

文化五年春三月

瑞龍山下の
老隠戯書

干時歳七十五

訳

 開けた所へ連れてゆき、血を拭き取り、顔や手足を洗わせて、取り急ぎ体裁を整えると、一言も喋らず駆け去ってゆく。やっとのことで江戸から離れ、改めて確認したらば、小判を包んでいた苞がない。「落としたに違いないとは思うが、戻ったところで見つからないだろう。お前達のせいで大損こいたよ。どうせ分け前も遣い切ってすっからかんだろう」と訊くと、「博奕で散々に負け、遊郭で酒代だと豪勢に撒き散らしたので、今日はさっきの侍の懐の物を頂戴して、ほらここにあります。小判はないでしょうが、酒代くらいにはなるでしょう」と開けて見ると、僅かに一分金だけが入っていた。その金でまたしても酒を買い、河豚汁を嫌というほど食べまくった末に、「江戸には出づらいな」と、東を目指して歩いく行く。
 下野の那須の野原に陽が沈んだ。小猿と月夜が云った。「ここの野っ原は、道があっちこっちに分かれてまして、暗い夜には迷ってしまうのは既に経験済みです。ここで暫くお休みになっててください。案内を見てきましょう」と云い残して走ってゆく。殺生石という名の、毒を持つ石垣が崩れた所で、火を起こし豪勢な焚火を始めた。
 そこに僧侶が一人通りかがった。目もくれずに行き過ぎる様子が癪に障る。「坊さんよ、何か食い物があるなら喰わせてくれ。旅費を持っているなら置いてゆけ。ただで通すわけにはいかんな」と話し掛けた。僧侶は立ち止まり、「ここに一分金がある。やろう。食い物は持っておらん」と云って、剥き出しの一分金を樊噲の手に渡し、振り返りもせず先を急ぐ。「その向こうに若いもんが二人立っているはずだ。『樊噲に遭って、物を贈ったぞ』と云って通り過ぎろ」と教える。「分かった」と答えた僧侶は、静かな足音で歩み去った。
 貰った一分金を掌に乗せると、無闇矢鱈に寒気がして、「あんなに心の真っ直ぐなお坊さんがいるんだ。俺は、親も兄も殺して、大勢の人を傷つけ、人から物を盗んで生きている、ああ情けない情けない」とひたむきに思い詰め、僧侶に向かい、「ありがたい御徳に改心し、今ここでお弟子となって、仏の道に入ろうかと思います」と告げた。僧侶は感じるところがあり、「殊勝な心掛けだ。ついて来い」と云って、連れ立って進んでゆく。
 そのうち小猿と月夜が姿を現した。「お前達、何処へなりとも立ち去り、どうとでもなれ。俺はこのお坊様の弟子となり、修行するつもりだ。襟元の虱よ、俺にひっつくな。金輪際逢うこともなかろうぞ」と云い捨てて、一瞥をくれると、別れて行った。「役立たずの子分らは捨ててよし。懺悔は道道聞かせてもらう」と云って、一歩先に立った。
 この物語は、陸奥の古寺の大和尚が、八十歳になり、いよいよ今日寿命が尽きる段にって、沐浴し、椅子に腰掛け目を閉じて、仏の名前すら唱えない。侍僧侶、客僧達が進み出て申し上げる。「なんと尊いお姿でしょう。遺偈の一章をお示しください」と懇願した。「遺偈ななんてものは、どれもこれもまやかしだ。真実を語り、この命を終えよう。私は伯耆国に生まれ、斯々然々の悪党となった。ふとした出会いにより悟りの境地に足を踏み入れ、こんにちに至る。釈迦も達磨も私も、一心同体となった今、一点の曇りもない」と語って死んだとのことだ。「心を鎮められれば誰しも仏の心が持てる。解き放てば妖魔となる」とは、この樊噲の事なのである。

文化五年(1808年)春三月

瑞龍山下の

老隠居の戯れ書き

その時、七十五歳

[春雨物語]『樊噲』本文 さて、村雲がいふ。「何となく、海を上りてこのかたは、心おくれたり。本国に、信濃に帰りて養はん。江戸は相撲のむかしに見知られたれば、あやふし」とて、ここに手を分つ。樊噲も、心さびしげに、「今はひとり、奥羽の果て見んと...
11/09/2026

[春雨物語]

『樊噲』

本文

 さて、村雲がいふ。「何となく、海を上りてこのかたは、心おくれたり。本国に、信濃に帰りて養はん。江戸は相撲のむかしに見知られたれば、あやふし」とて、ここに手を分つ。樊噲も、心さびしげに、「今はひとり、奥羽の果て見んともなし。江戸に出でて遊ばん」とて、またを契りて行く。
 江戸に出でしかど、例の人あまた立ちつどふ所は、心ゆかず。ひと日は、雨いささかうちそそぐに、浅草寺に心ざして来たれば、けふといへども静かならず。網代笠深くかがふりて、酒店に心ゆかぬほど酔ひて、神鳴る門に入りたれば、何事か人立ちさうどく。「ぬす人よ」とて、口々に言ふ。小猿、月夜らがここにあやふきにやと、行きて見れば、はた二人が手に血つきて、おのれらも刀うち振り戦ふなり。若き侍五、六人が中にとり囲みて、この五、六人もいささかづつ疵かうむりたり。市人、寺院の内よりも男ども、棒とりどりに、おつとり巻く。
「不便なり。助け得るさせん」とて、人押し分けて、「これはいかなる喧嘩ぞ」とて、知らぬ顔に問へば、「あの二人のぬす人め、酒に酔ひて、若侍たちの懐をさぐり取りしを見顕され、屋敷へ連れ行きて殺さんとおしやる。遁れんとて、抜き刀して一人に疵つけたり。皆ひと連れにておはせば、かく血にまみれて、互ひにうち合ふなり」といふ。
「さらば」とて、近く寄り、「今は互ひに無益の戦ひなり。扱はん」といふ。小猿、月夜は力を得て、刀抜きたるを構へて、樹のもとに立つ。侍ら、「いな。かく我々も疵つきしかば、帰るべき道なし。かれら首にして帰り、主の君に詫びん。扱ひ言うしてして、法師も命損ずるな」とて、聞き入るべくもあらず。「」首はかれらが物なり。盗みし物だにわきまへなば、助けてとらせ。立ちまひ悪しくてぬす人に疵つけられたるは、おのおの不幸の事なり。聞き入れずは」とて、錫杖とりて、二、三人を一度に討ち倒す。「すは、ぬす人の頭来たるは」とて、群がり逃ぐるもあり、「打ち倒せ」「打ち殺せ」とて、棒は篠原より繁し。「」おのれらまなこ無きか。我は修行者なり。事聞き分けて、人の命失はせぬを。心なくいふは、ともに打ち散らさん」」とて、錫杖に、前に立つ七、八人を打つほどに、「あ」と叫んで、皆うち倒る。侍は、今はうろたへて、逃げ行くままにして、「二人の者ら来よ」とて、脇に挟みて、飛びかけり行く。人声のみさわがしくて、追ひも来ず。

訳

 そこで村雲がこう云った。「何となく、海から上がってからというもの、どうも臆病になっているようだ。故郷の信濃に帰ってのんびりしようと思う。江戸は相撲取りだった時分に顔がわれているから危ない」と、この場で袂を分かつことになった。樊噲も、どこか淋しげに、「今はもう一人で奥羽の果てを見てみたいという気も失せた。江戸に出てぶらぶらするよ」とまた逢う約束をして江戸に向う。
 江戸に出たものの、例によって人がうじゃうじゃ集まっている所に行くのは気乗りがしない。そんなある日、小雨がしとしと降り続くので、浅草寺に詣でてみようと訪れてみたものの、生憎の天気にもかかわらず静けさとは程遠かった。網代笠を目深に被り、飲み屋に入って酔っ払わない程度に引っ掛けてから、雷門をくぐると、何事かあったのか人垣が出来、ざわめいている。しかも「盗っ人だよ」と口々に云い合っているではないか。ひょっとして小猿と月夜が危険に晒されているのではと近づいて見ると、案の定二人が血のついた手で、刀を振り回して応戦していた。若い侍五、六人がぐるりと囲み、その五、六人も全員いささかの傷を負っている。市中の人々の他に寺の中から男共も出てきて、各自棒を手にしながら、緊迫した面持ちで取り巻いている。「不憫だ。助けてやらねば」、そう呟くと群衆を掻き分け、「これは何の喧嘩なんだ」と見知らぬ男に訊ねたところ、「あの二人のこそ泥が、酒に酔って若侍の懐から財布を抜き取ろうとしたのを見破られ、屋敷に連行して殺してやると仰っておられるのだ。遁れようとして刀を抜き、一人を傷つけたんです。皆さんお侍同士ですから、こんな風に血まみれになって互いに斬り合っているというわけです」と教えてくれた。「それなら」と近寄り、「こんな喧嘩はお互い無益たま。仲裁しよう」と云った。小猿と月夜は加勢を得、抜いた刀を構えて木を背にして立った。侍達は、「そうはいかん。かくの如く我々も傷つけられたからには、どの面下げてお屋敷に帰れよう。彼奴らを首を挙げて持ち帰り、主君にお詫びせねばならん。お坊さんも余計な仲立ちをして命を落とされぬよう」と云うい張り、まったく聞く耳を持たない。「首は彼等の物です。盗んだ財布を返しさえすれば、見逃してやりなさい。未熟な立ち居振る舞いで盗っ人に傷をつけられたのは、貴方達に運がなかっただけの事。どうしても聞き入れないと云うのなら」と云うや、錫杖を手にして二、三人を一遍ににぶちのめした。「やれ、盗っ人の親玉が来たぞ」と集まってくる者も逃げ去る者もいる、「ぶっ倒せ」「ぶち殺せ」と喚き立て、構えた棒の数は篠竹の数より多かった。「お前らは盲か。私は修行者だぞ。事の次第を聞き分け、あたら命を失わせぬようにしておるのに。ならば一網打尽だ」と告げて、錫杖を振り翳し、立ちはだかった七、八人を滅多打ちにすると、「あっ」という叫びとともに一人残らず打ち倒された。侍は、今や狼狽し、盗賊達が逃げ去るのを追おうもせず、樊噲は「二人共、ついて来い」と脇に挟み、疾風の如く駆け去ってゆく。皆々騒ぎ立てるばかりで、追いかけても来ない。

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