08/08/2026
本屋の学校が、夏休みに入り、盛況のようだ。通ってくれているのも、小学生から中学生まで。いがいと、この年齢層の生徒たちが、ひとつのテーブルを囲むというのは、あまりないことだ。
本屋の学校は、今は学習支援の場として行っているが、本屋になるための学びの場としての、本屋の学校を近いうちに立ち上げようと思っている。
ひとつの店の経営だけ考えるのではなく、少し広く本屋というものを捉え、そして経営していきたい、と思っている。その辺を含めた学びの場を設け、それに手軽に開業できるシェア型書店を組み合わせて、展開していこうと思っている。学びの場としての本屋の学校、それを実践する場としてのシェア型書店。このふたつの場を往復することで、学びが強くなり、やがては独立した書店主を輩出したい、と思っている。本屋減少に対する、私なりの答えのひとつだ。
紙の本が「嗜好品」になっていく、と書かれていている本を読んだ。いわば贅沢品としての紙の本、ということだろう。大きな流れではそうなるかもしれないが、私はそれとは違う可能性を紙の本に感じている。
大げさにいえば、この先、紙の本を読むことは、癒しになっていくだろう。触れ、嗅ぎ、読む。五感を総動員しての読書をすることで、自分の時間を取り戻すことが出来る。ブックセラピー、読書セラピー、ビブリオセラピー、という言葉がある。調べたら、こんな団体があったから、私の考えは休みに似たり、ということなのかもしれない。
この先、人間にとって、大事なことは、ネットに繋がらない時間を、いかに多く確保するか、だと思っている。デジタルに人間の居場所は、どんどん少なくなってきている。リアルとフェイクが混在して、人間には判断ができない、まさにカオスな空間から、いかに離れるかが、この先のよく生きる鍵だと思っている。
私は、この考えをもう一歩進めた本屋セラピー、ブックショップセラピーという、本屋をやることで得られる癒しを提唱していく。
なんてことを考えていたら『長屋通信11号』のなかで本店・本屋の実験室で函店主をしている「ヒラタヰゾウ」さんが同じようなことを書いていたので抜粋し紹介してみよう。
「ヒラタヰゾウ」さんは、インターナショナルスクールで日本語教師をしている方で「書店と学校を往復する中で見えてきたこと」に関して書いてくれた。
働く学校の中で「言語教育をやりながら、自分は「ことば」を使って、考えていない・・」「そんな自己矛盾を解消してくれたのが、書店という新しいアイデンティティでした。(中略)棚に何を陳列するのか、読書会でどの本を扱うのか、イベントのゲストに本当に来てもらいたい人は誰なのか。これらのことを考えることこそ、押し込められていたわたしの「声」に耳を傾け、そのことばを無視せず、自分の「選択」として表明する過程になっていたように思います」
全文は本店・本屋の実験室に置ていある『長屋通信11号』でお読みください。
「私は誰でしょう」青山次郎が白洲正子に関して書いた文章のタイトルだ。自分とは何か、自分のしたいことは何か、多かれ少なかれ、この問いを抱えながら、生活している人はいだろう。ましては高度な資本主義な世界を生きている今では、そんな問いを発したとたんに、人格がシュリンクしていしまうのかもしれない。
本屋をやることで、この問いに答えだす、そして本当の自分を、本当にやりたいことを、仕事にして食べていく、生きていく、そんな人を多く輩出したいと思ってる。
ヒトハコ本屋市からヒトハコ本屋へ。ヒトハコ本屋から一列本屋へ。臨時の売り場から、小さいけれど自分の店を構え、徐々に本を売る場を大きくし、やがては独立して店を構える。そしてその横には、伴走支援をする本屋の学校がある。こんなイメージを持っている。本屋の学校、開校したら是非入っていただきたい。