営業時間 9時〜18時
定休日 毎月第1,第3,第5日曜日
福岡県八女市の旧城下町にて三百余年を数える店です。
19世紀に発達した【工場制手工業】(商人などが作業場=工場をつくって人夫を集め,分業で生産を行う。作業する場所は,店舗奥の作業場=工場になる)にて、江戸時代~昭和初期に建てられた店舗を現在も使用し、お茶作りを行っております。
当代=十四代目においては、先祖代々の思想や伝来物を学び、自分たちの行く末や指針、今後の世界を考える上で役立てたいと思っております。
埋もれてしまった歴史を知ることは、自身の誇りや情熱などの存在意義に繋がります。
その喜びと供に地域を支える店として
また八女茶の歴史を知る店として
地域文化の存続にさらに邁進して参ります。
皆様 何卒御引立の程お願い申し上げます
令和四年 十二月 十四代 許斐久吉
江戸宝永年間(1704~1711)
福岡県八女市旧筑後福島城下 横町にて創業。
以降当家では『以誠売茶』=【誠実に茶を売る】を理念として歩んで参りました。
現世14代目と成り新たに『温故知新』を掲げ 伝統を未来へ繋げるよう精進しております。
何卒一層の御引立の程お願い申し上げます。
許斐(このみ)家について
当家は 古代 福岡県北部(現 福岡県宗像市周辺)の豪族 宗像家由緒の一族です。宗像家は有史以来、海運を司る宗像三女神:田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る宗像大社の大宮司を代々務め大陸との交易を生業とする海人族でした。
宗像庶流である許斐(このみ)の氏姓の由来は諸説あり、宗像市内にある空海が創建した真言宗最初の寺院 鎮国寺(ちんこくじ:宗像大社の神宮寺)には宗像三神、織幡明神とともに阿弥陀如来を本地仏とする許斐権現の五体の仏像が安置され、神仏習合本地垂迹説からもルーツが伺えます。
16世紀 戦国時代末期になると当家一門は八女の地に入りました。
近世になると江戸時代 元禄(1688年)生まれの初代 ※矢部屋(許斐)甚四郎は、宝永年間(1704~1710年代頃:300余年前)、 久留米藩 筑後国上妻郡福島城下町跡 豊後別路沿い(現在の八女市本町福島地区)に、近隣の山々で採れた茸、和紙の原料である楮(こうぞ)、茶、木材などの山産物を取り扱う問屋業をはじめました。 江戸時代元禄の頃には戦の無い世となり、人々が商いをし易い環境が日本各地で整い、町人文化が花開き始めた頃でした。
※矢部屋(やべや)=「矢部」とは室町時代からの「八女」の別名で、取り扱う山産物の採れる地名を屋号とした。
また四代 養八の頃(1730年~1735年)になると、久留米藩儒 合原窓南の高弟として性理易学(儒教朱子学から派生)を学び、後に漢医として雲山と号し、山々で採れた薬草と同じく、茶の効用を薬として活かしました。
一方、世界の茶の動向として、17世紀に入るとオランダやイギリスの両 東インド会社は、自国や欧米諸国の茶の需要の高まりから中国の茶を買い付けるようになります。
安政3年(1856年)には浦賀に来航したペリーが、太平洋ルートから清国の絹や茶を買い付ける米船の中継基地として日本の開港を要求しました。幕府はやむなく規制緩和を受け入れます。
同年長崎では日本茶輸出貿易の先駆けとして大浦慶が英国人貿易商ウィリアムオールトと茶の直接取引を開始しアメリカへ輸出を始め、日本の茶も海外で求められるようになっていきました。
その頃、八女においても長崎を経由し茶を外国へ輸出する商いが増え始めました。 1863年7月には日本に茶の買い付けに訪れたトーマス・ブレーク・グラバーが長崎に入りアメリカに筑後茶(当時八女地方で作られていた釜炒り製法の茶)を輸出しました。昔からこの地域で生産される茶は品質が良く、周辺諸国でも有名で、長崎での茶貿易がはじまると、八女の茶を買い付けに来る商人が増えいったのです。
当家でも慶応元年(1865年) 矢部屋 八代(許斐) 寅五郎(製茶問屋 初代)が、茶の輸出を本格的に開始し、現在地(八女市本町126)に専門問屋として店を構えいました(現店舗)。 地方においても茶に特化した問屋ができる時代が訪れたのです。
当時は大消費地だった江戸や京都を除き、お茶だけを扱うような問屋は地方ではまず成立しませんでした。お茶だけの商売が成り立つほど地方経済は潤っていなかったようです。
しかし幕末からのお茶の貿易により茶問屋という新しい商いの形が現れ始めようとしていました。その茶輸出に目を付け専門問屋を確立したのが八代 寅五郎でした。
それまで矢部屋として様々な山産物を扱っていた本家の商いから、茶の部門を譲り受け、茶を専業にした問屋(茶商)をはじめます。
明治維新を迎えると、外貨獲得策として日本のお茶は益々輸出拡大期を迎えます。しかし輸出を急ぐあまり、乾燥工程をきちんと経ずに送られていた茶は輸入国では大きな問題となっていました。明治十六年(一八八三年)、ついにアメリカは贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例を出し、対米緑茶輸出は良品不良品に関わらず一時的にストップします。また釜炒製の多くの日本茶は品質面から輸出不振となりました。外需頼みの日本茶業界は苦境に立たされ、当地方の茶輸出も順次脱落していきます。
九代 久吉は方針を転換し、国内での販売拡大を目指します。技術的な見地からこの地方の気候風土に玉露の生産が適していることを見出し、より高品質な玉露の生産の為に科学的な検証を行い、玉露の品質向上を推し進めて行きました。また京都の特産である宇治茶の製法を研究し、当地方の茶を蒸製へ転換するため模索します。当時八女地方の茶は筑後茶と総称され、笠原茶、星野茶など細かい地域名でも呼ばれており、大半は旧来の釜炒り製でした。それ故、宇治茶や静岡茶に品質面で大きく差を開けられていました。久吉は高品質の蒸し製緑茶を八女茶と名付け一つにしてその量産化に尽力します。そして初代久吉の代では特産化の夢は叶わず、意思は久吉長男の十代 久吉(二代目久吉)に引き継がれました。契機は大正十四年に訪れます。
その年福島町で行われた物産共進会 茶の品評会の部で、質・量とも対外に通用することを確信できた当地方の茶業関係者たちに、二代目久吉(当時八女郡茶業組合理事長)は会合の席で、八女茶の名称と特産化を提案、それは満場一致で可決されたのです。
ここに久吉親子の悲願が達成され、後に八女茶業関係者が一丸となり、茶の品質向上と生産量の拡大が計られて行きました。
いま世の中で変革が叫ばれております。日本の茶業界においても新しい価値創造が求められ、私共も今一度 創業の精神を振りかえって社会企業家の原点にたち帰り、存在意義を考えて参りたいと思っております。
☆当家のお茶の製造工程
❶拝見審査=値付け
荒茶工場で出来た荒茶の総合評価(審査して値を評価します/現在は茶市場で入札制度により評価をして買い取ります)を行います。
❷精選加工
次に茶の仕上げ製造工程を行います。
当社の仕上げ茶製造工程では、精選加工といわれる茶葉の形を揃え異物(虫や木の葉など)を除去する工程を行います。
❸焙煎
次の仕上げ工程は茶の香味を最大限に引き出す焙煎加工です。この焙煎工程には現在様々な技術があり、昔ながらの焙炉と呼ばれる和紙の上で炭火焙煎する方法や、鉄の窯で炭火やガスバーナーで焙煎する方法、遠赤外線を照射して焙煎する方法、マイクロ波で焙煎する方法などあります。この焙煎によって茶の最終的な香味を決め、その香味により茶の風味が決まってくるので、茶の味を左右する最も重要な工程となります。
弊社では昔ながらの焙炉と呼ばれる和紙の上で炭火焙煎する方法、鉄の窯で炭火やガスバーナーで焙煎する方法、遠赤外線を照射して焙煎する方法を組み合わせ焙煎作業を行っております。
❹評価審査=品質審査
焙煎工程後は、茶の香味の不完全な部分を見つけ出す為、再び審査を行います。
❺合組=ブレンド
仕上げ工程の最後は、味の不完全さを補いコクを出していく、合組(ごうぐみ)(ブレンド)作業を行います。この合組工程は、茶を調合することで味を補完し整えていく、きわめて熟練度を有する作業です。技術や感覚が必要で、長年の勘や経験がモノをいいます。そのために合組作業は、基本的に問屋の嗜好によって香味が異なるため、その調合は秘伝とされ、それぞれの茶問屋ならではの味になっていきます。
このように、茶摘みからいくつもの工程を経てできた茶を、最後に流通に乗せ消費者の元に届けるという重要な役割を茶問屋が担っています。
当家で300年という八女では最も長い年月を通してその生業を営んでおります。
※「茶商」についてのエピソード
「茶商」とはいわゆる「茶問屋」の事を指し、戦前 農協等の組織が無かった時代には、茶栽培の指導、資金提供、そして茶の買取り、販路開拓等の役割をすべて担っていました。そのため、茶業界では「三人の技術者より一人の茶商(やぶきた品種の生みの親 杉山彦三郎の言葉)」と云われ、業界を支える大変重要な存在でした。
現在でもお茶の相場や品質、二次製造(仕上げ製造)、企画、流通等を担う役割を果てしています。